暮らしの読み物

部会や倶楽部の会員の方々のご協力により寄稿されました。
論文あり、旅あり、食あり、涙あり…と、示唆とウイットに富んだ内容をお愉しみください。


地下足袋日記   1   2   3   4   イギリス編
「遺伝子の命ずるままに 住吉高灯篭建立の奨め」   1  (PDF形式)
味読「やさしさを生きる…」   1   2   3   4   5
ロハスライフ   1
あかりと遊ぶ   1   2   3
アイビー文化を楽しむ   1   2   3   4   5
やきもの小話   1   2   3   4   5   6
35日間の熟年夫婦の旅日記   1-1   1-2   2   3   4   5   6


リスボン→コインブラ→ポルト

 メリダ駅を午後二時半出発。前方には古代ローマ遺跡の水道橋が途切れ途切れで一直線に延びているのが目に入ってくる。目指すはポルトガルの主都「リスボン」だ。列車は国境越えを含めて三回乗り換えがある。一つ目はまだスペイン国内であり、ペセタの通貨も持っているので、わずかの待ち時間を利用して夜食用の食物を買いに急いで駅前に出た。残念なことに土曜の午後は、どこの店も閉店状態。辛うじて商品が棚にバラバラと置いてある小さな店があったので食べる物なら何でもいいと袋に入れてもらい予定時間に間に合うように戻った。ところが駅の待合いも、ホームも人々々でごったかえしている。みんなが遠く線路のかなたを見ている光景に、何か事故でもあったのだろうか。しきりにアナウンスがあるが英語でもわからないのに、ポルトガルやスペイン語に至ってはさっぱりお手上げ状態。結局一時間以上待たされての出発となったが、この間心配気な我々を気遣ってくれる人達もあり、言葉は通じなくても心が通じ合える喜びに打たれた。乗り換えのたびに新しい顔ぶれとなり、親切に話しかけてくれる人、下車してホームから手を振って見送ってくれる母と子供。ときには「日本人ですか」と尋ねられるが、どうしてアジアの中国や韓国の人と見分けができるのか不思議である。とっくに太陽も沈み、乗車時間も六時間くらいは経つ。暗がりの中、近くに水辺を感じる風景がしばらく続いた後、リスボンのサンタ・アポローニア駅に到着したのは夜九時だった。途中、慌ただしく食物を買い込んできてよかったと我ながらこの判断と行動にしたり顔となる。ポルトガルの通貨エスクードの両替もしていないので無一文、タクシーにも乗れないのでとりあえず手元の参考資料に5番ホームの脇に両替所があると書いてあるので行ってみたら窓が閉まっている。仕方なく切符売り場で尋ねると、ここでチェンジしてくれるという。ポルトガル語の表示や看板もローマ字式に辿って読むのですぐに理解ができず余計に時間がかかってしまった。両替できて一安心!

小さな駅に降りた母・子連れが
手を振ってくれた。
 両替では、スイスのジュネーブでフランスフランを持ち合わせず、フランスのTGV乗車時に失敗したのに、今回もポルトガルのエスクードを持たずに入国して心配を重ねてしまった。お金持ちの身分なら、最初に訪れる国々の通貨を一ぺんに替えておけばよいのだが。でもこれからはヨーロッパ圏の旅行をする時には統一されたユーロが使えることになるからこんな心配は無用となるだろう。
 駅は町の中心より東寄りに離れていて、駅前は薄暗く街灯もポツンポツンとあるだけで、人もまばら。空腹の為か心細さもつのってくる。タクシーは一、二台待機していたが、乗るのも不安な為バスに乗ることにした。バス停はすぐに見つかったが、行く先や降りる停留所名もわからない。手持ちの地図を見てもたついていると、仕事帰り風の娘さんがニッコリ、はずかし気に同じ方向に行きますからと声をかけてくれる。本当に救われた心地だった。車内は暗く、乗客も三、四人位しか乗っていない。町の中心地までは十五分位走るらしいので、車外の様子を目を凝らしてみるが、真っ暗闇で何一つ見えない。その内に道路傍の明かりが見えだしたかと思うと、いきなり照明で照らし出されたにぎやかな広場へ出た。咄嗟の判断で宿を探す為下車する。この広場周辺で高級ホテルからペンサオまで数軒当たってみたが、どこも満杯で断られてしまい、もうこれで最後にしようと半分諦め気分で尋ねたレジデンシアでやっと泊まる場所が確保出来た。案内人について三階まで階段を上る。部屋側は白い壁、反対は窓ガラスで広くて長い廊下、まるで病院か学校に来ているみたいで、部屋のドアーも教室に案内してもらっているような錯覚におちいりそうだった。今となっては一晩の宿がとれただけでもラッキーと思わなければと、やっとのことで落ち着くことが出来た。週末の観光地はこんなことがあるから避けたいと思うが、欲張り計画の日程上どうしてもさけられないから、ごり押しの行動になってしまう。子供達に話したら「まだそんな学生見たいな旅行してるの、年齢を考えたら。」と言われそうだ。
 暖かい夕食をとろうと思ってすぐに外へ出たが、もうレストランは閉店。にぎわいを見せていた広場だと思ったものの夜十一時過ぎでは無理もないことかと、仕方なしに部屋へ戻り、昼、見知らぬ土地で調達したパン、果物、ヨーグルト、ビール、そしてリュックの底に残っていた、のしいかやナッツ類で腹の虫をおさえることにした。
レスタウドーレス広場
 悲愴だった昨晩から明けて今日は日曜日。目の前に広がるレスタウラドーレス広場も、すぐ近くのロシオ広場も閑散として、出店もなければ周囲の店もシャッターが下り、人出もまばら。バス停に腰掛けている二、三人がいるだけ。すっかり物憂い気分に支配されてしまった。もう、何もかもがあてはずれてしまったようで、背中のバックも重く感じる。こんな状態ではと、気落ちしながらも地図を頼りにロシオ宮を目指す。石畳の幅広い坂道沿いには、四、五階建の古い建物が並び、壁の色はパステルカラーで思いの外、結構楽し気な心地にさせてくれる。一段と大きな建物の入口、映画館かなと思って看板の「!」をみたら観光案内所になっていたので、ロシオ宮はどこかと尋ねると、ここがそうだと言う。「エーッ、ここが宮殿?」と思わず口に出るところだった。外へ出て外観をじっくり見ると、確かに格調高く威厳のある建物には違いないが、昔の宮殿の一部だったのだろうが、私の宮殿へのイメージは、広大な庭を配して、せいぜい二、三階建で、両翼を広げたような館を思い浮かべてしまうので意外だった。
丘の町リスボン名物の
エルヴァドール(ケーブルカー)
 ロシオ宮の横からリスボン名物のケーブルカー(エレヴァドール)が坂道を往復しているので、ほんの300m足らずであるが乗ってみることにした。七つの丘に広がるここリスボンの町は、どこへ行くのも坂道ばかり。狭い石畳の小路が否応なしに歩みを緩める。この町は、かつては大航海時代に大陸発見や侵略での富で栄華を誇った活気あふれた生活があったに違いないが、今はその面影はまるでみられない。
 丘の展望所からすぐ目の前の丘には、遠くにテージョ川とサンジョルジェ城が広がる。逆光のせいでカーテン越しで見ているようだ。リスボンの町では二日間滞在予定して、近郊のシントラやエストリル、ナザレ、そして最西端のロカ岬へも出向くつもりだったが、交通手段などを相談するインフォメーションも休日と言うから八方ふさがり。すべてを諦めてこの地を離れることにする。中学生の頃、社会科の勉強でリスボンの港から船出した冒険家達の話を、自分なりにふくらませていただけに残念だった。
コインブラ駅
 再び国際列車の発着駅サンタ・アポローニアより北上。二時間半で、中世にはポルトガルの宗教、学問の中心地だった「コインブラ」に到着。宿泊の確保が第一とばかりに、駅から二、三分の細い路地の角にあるペンサオを見つけた。値段は二の次で、シャワー、トイレは共同だが、家族だけの経営で可愛いおばあちゃんが部屋を案内してくれた。
 この地も以前から尋ねたい所の一つだった。世界で最古の大学といわれるスウェーデンのウプサラ大学とここコインブラ大学には、不勉強な私であるが、名称だけで心ひかれる思いがあった。1290年創設の大学がある町。学問の中心として大いに繁栄したことだろう。遠くスペイン北部カスティーリア地方の山岳から発した大河モンデコ川がゆったりと町中を流れ、丘の上に建つ町のシンボル「コインブラ大学」を中心に旧市街が広がり、対岸のサンタクララ橋を渡ったところからは町全体が見られる。一歩町の中へ踏み込むや、細い路地やすり減った石畳の急な坂道あり。こんな土地への観光は高齢になって足腰が弱ってからでは絶対に訪れることは出来ないと、心底今の健康に感謝したい気持ちになる。身軽な恰好でも前屈みになってゆっくり一歩一歩山登りをしているようで息がはずむ 。
すっかり疲れきってしまったような
旧カテドラル
 ふと腰を伸ばして前を見ると旧カテドラルが現れた。レコンキスタ時代に要塞も兼ねて建造されたというから、本日まで幾多の支配者が代わり、幾多の人々がここに集まったことだろう。一見すっかり疲れきったような建物ではあるが、入口の扉、堂内の壁、大理石で造られた聖水鉢の彫刻、絵タイルの立派さを思うと、このイベリア半島では、十二世紀にはすでに芸術的な創作活動が活発に展開されていたのだ。創建当時のコインブラ大学、附設された図書館、教会、すべて大理石で造られ、内装も豪華で目を見張るばかりで、その背景には、大航海時代にブラジルから得た富をほしいままに投入されて造られたものらしい。
 登り歩きに疲れ果てて坂道を下ったところ、そこには通勤帰りの時間帯でにぎわいを見せるオイト・デ・マイオ広場に出た。広場のメインとなるサンタ・クルス修道院はこの町の中心らしい。 たくさんの出店もあり、食いしん坊の我々は、すぐに焼栗を売っているおじいさんに目が合い、すぐさま食むことになる。
アーチ形入口の柱
砂岩に彫刻されたデザイン

修道院入口の石造りの柵に寄りかかってぼんやり人々の流れを見ていると大きなバックパックを背に前には小さなザックをかかえた一人旅の女子大生らしき人が目に入る。これからリスボンへ向かって行くという。「地球の歩き方」の観光本を見せて、尋ねた所は破りすてて減らしているというから面白い。本当に気丈な若者がいるものだとエールを送りたい気持ちだった。ペンサオ近くで赤い看板「中国料理」のレストランが目についた。ポルトガルへやってきて中華料理に食指が動くとは思ってもみなかった。久々に醤油味にありつけるうれしさで酢豚、八宝菜、焼めしを注文。いずれも日本で味わうものとはほど遠い味であった。代金は2500円位。丁度宿泊代の半分位。少し高いが、出費の大小があってこそ、旅の味付けになるのである。
 月曜の朝は出勤時間をはずして、モンデコ川沿いを歩き、サンタ・クララ橋のたもとにあるコメシオ広場までたどる。広場の中心には、航海王エンリケの銅像が建ち、まわりは美しい花壇になっている。カフェテラスでコーヒーと菓子パンで朝食をすまし、午後からのポルトへの移動に備える為、メルカド(市場)へ向かう。何でもありの市場内、ハムや干し肉は希望枚数だけ売ってくれるので大助かり。果物も豊富。めずらしい土地の産物を目にするだけでもこの市場通いは楽しいものだ。スペインのパンは実においしい。毎回食べても飽きることがない。まだまだ食べ続けられそうだ。 日本を出て二十三日目、煮炊きもせずにシンプルな食事で体力が維持出来るのが不思議。体重の増減もなく、旅行中はいたって快調だ。五年前の直腸癌の大手術を受けた身体とは思えないくらい疲れ知らず。この調子だと、まだまだ飛び廻れるという勇気すら湧いてくる。

旧コインブラ大学 1290年創建
附設の図書館
 ポルトガル滞在も本日で最後の地となるポルトに向けて午後出発する。イベリア半島も北上するに従って樹木も豊富に茂り、赤い屋根や教会の尖塔を見る以外は日本国内を旅しているような気になる。
 コインブラから特急列車で一時間半。ポルトのカンパーニャ駅に停車。ここで降り、反対ホームよりあと一駅乗ると町中にあるサン・ベント駅に着くことになる。この特急列車は我々の旅姿には似付かわしくないくらい豪華版で、重厚なじゅうたんが敷きつめられた床、ビロード張りの椅子、テーブルも立派なものだ。深々と椅子に座り込んで、持ち込みの昼食をとったところまではよかったが、車内のアナウンスで、次が乗り換えの駅だと気付き、慌ててテーブルの上を片づけ、取る物取り敢えず下車する破目になってしまった。のんびりやの我々があたふたと下車した様子には、周囲の乗客もびっくりしたに違いない。
ポルト
サン・ベント駅構内、タイルが壁全面に張られている
目的のサン・ベント駅に着くや、コンコースの見上げるような絵タイルの装飾に釘付けされてしまった。紺一色の濃淡で描かれた絵を見ているようで、その場を立ち去るのがもったいないような感激ものだった。
 ペンサオはすぐに決めた。西向きの大きな窓ガラスのある二階の部屋。大通りに面していて、まだ高い夕陽が射し込んでいる時間なので、荷物を下ろしてすぐさま町へ出る。どの地へ行っても旧市街の建物には驚きの連続である。この町の一番の高い塔、グレゴリオ教会の塔へ上る。木製の225段の階段を登りつめると、町全体360°の展望となる。イベリア半島では一、二を競うであろうドウロ川も大西洋にそそがれる。赤い瓦屋根がみられるのもそろそろ終わりになるかも知れない。赤い屋根の色も、少しずつ傾きかけていく太陽に吸引されていくようだ。ドウロ川に向かって少しずつ坂道を下る。途中、ボルサ宮の庭で、現在発掘中の遺跡をのぞき見したり、少々疲労気味の足腰を休める為アンティークの店をのぞいたりで、もう遅い時間だったのでサンフランシスコ教会やカテドラルは外観をみるだけで終わった。専門の酒屋でポルトワインを買う。日本でお馴染みのポートワインは、ここポルトの港から積み出されたのでこの呼び名になっているという。量の少ないビンを選んで、本晩の楽しみに持ち帰る。帰り着いたのは夜九時前。毎日毎日が歩きづめの行程なので、夕食はやはり遅くても部屋でとるのが落ち着く。下着のままうろつこうと、ベッドに寝そべって食べようと、外目を気にすることもないからゆっくり休養にもなる。さて、市場で買い込んだものをテーブルに広げ、チーズや果物の皮をむこうとナイフを探すが見あたらない。思い当たる状況が浮かんできた。列車の乗り換えの時、慌ててテーブルの上を片づけた時、ナイフを落としてしまったようだ。絨毯の上では落としても音がしないので気付かなかったのだ。あの時、前席にいた男の人がしゃがんで何かを拾ってポケットにしまい、さっさとホームから立ち去っていかれた様子は見ているが、まさかナイフを落としたこととは関連させることはできなかった。やっぱりあの時がそうだったのかと、自分の不注意を反省した。主人自慢のスイスのアーミーナイフだったので少々残念だが、旅の必需品なので、早々にどこかで買い求めよう。すべてまるかじりした夕食もまた楽しである。空になったグリーン色のワインボトルには、ラベルではなく白と赤の字でしっかりペイントされているので、主人は持って帰ると言って、ザックの中へ入れてしまった。アルコールに弱い主人は早々に寝入ってしまい、私は明日予定の再入国するスペインの「サンチャゴ・コンポステーラ」への路線と時刻表での確認作業が残っている。トーマスクックの時刻表だけでは大筋しか記載されていないので、すんなりと行けそうにもない。夜中まで色々な方法を考えたが、とりあえず早朝出発して、車内で考えようと、荷物も放ったらかしで寝込んでしまった。
絵タイルの一部
ポルト市庁舎
グレオリオ教会の塔から
ポルト市街地を見下ろす

人道までが店の延長?
大型魚の干ものがぶら下がっている
大西洋はもう真近いドウロ川、
電車が最上を通過するドン・ルイス一世橋

次回、サンチャゴ・コンポステーラ→レオン→ブルゴス→パンプローナへと向います。
お楽しみに。


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