終の棲家の理念と原点 |
研究会は発足当初より毎日をイキイキと輝いて暮らすための暮らし方と住居の在り方を探求してまいりました。30年に渡る探求の総括として「終の棲家」という言葉で象徴される理念に行きつきました。手掛かりは研究会が長年お付き合いをいただき、お世話にもなっていた老建築家の暮らし方に対する信念と住居へのこだわりこそが、究極の答えであり「終の棲家」を推奨する原点となった次第であります。 その建築家、吉村康雄(1914年〜2005年)さんはメンソレータムで有名な近江兄弟社の経営、神戸女学院大学・京都YMCAサマリア館・大阪心斎橋大丸・東京山の上ホテルなど幅広い業態の建物を設計された米国の著名な実業家であり建築家でもあったW.M.ヴォーリズ氏の薫陶を親子二代に渡って受け継いでこられた方です。 吉村さんは父上が設計・建築された住居に暮らしておられましたが、阪神淡路大震災で基礎に被害を受けたため間取りをそのままに耐震強度を高め素朴な山小屋風に再設計・再建築され、91歳でお亡くなりになるまで「終の棲家」として暮らしてこられました。永眠されるまで60年を超える設計活動を精力的に継続され、少年の心そのままに何事にも目を輝かせる日々をお過ごしでした。 「終の棲家」はそこで営まれる暮らしの質が大変重要で吉村さんの暮らしに対するコンセプトは「住居は丈夫で質実剛健、小さく建てて大きく暮らす…」、「住居は憩いの場、人間性を養う場…」、「暮らしは自然に学び、謙虚で素朴に…」、「三世代を暮らし継ぐ…」でありました。これは現在の働き方改革やSDGs、そして脱炭素社会に向けた活動理念にも合致し、これからを生きる方々への行動指標にもなると思います。 「終の棲家」について少し補足しますと、俳人小林一茶は「これがまあ、終のすみかか、雪五尺」と詠みました。彼が50歳になり生まれ故郷の長野県信濃町の実家で人生の最後を過ごすため帰郷しました。処が文政10年(1827年)6月1日の柏原宿大火に遭い母屋を焼かれ、焼け残った土蔵で生活する羽目に陥ってしまいました。その時に詠んだ句が「この見すぼらしい家が自分の生涯を終える最後の家になるのか…」と雪の時期に詠んだものと思われ、その後一茶は望み通りに故郷で暮らし「終の棲家」となったこの土蔵で永眠しました。 | |
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