「竹森正義先生を偲ぶ」


暮らし方研究会 代表理事 津島 素
  誠に残念なお知らせです。暮らし方研究会設立時の発起人のお一人で、セミナーでご一緒されお顔を覚えておられる方も多いと思われますが、研究会の最長老顧問であった竹森正義先生が11月11日にご逝去されました。御歳91歳でした。
  先生は、1919年(大正8年)、大阪に生を受け、1943年(昭和18年)秋に学徒動員により半年早く京都大学医学部をご卒業後、海軍軍医(海軍士官)としてパラオ島に従軍され、九死に一生を得て1945年(昭和20年)の大みそかに帰国されました。その後、大阪市東成区大今里で医療法人 産育会 竹森産婦人科 理事長・院長・医学博士として幅広くご活躍されていました。
  少し長くなりますが追悼の意を込めて先生の足跡を辿ってみたいと思います。竹森家のご先祖は、司馬遼太郎著の「播磨灘物語」1巻に登場する竹森新右衛門さんで、播州平野の一角で農業を営んでいました。戦国時代の末、嫡男の新二郎さんは豪勇な方で黒田官平衛(如水)に従い、戦功を立てて九州は福岡に移られました。その後裔で筑前遠賀若松の里、鳥見山の麓の川辺に居を構えられたのが先生のご先祖でした。家の前には、海を渡って新羅を征した神功皇后所縁の住吉神社が鎮座し、祖父竹森葱次郎さんは毎朝参拝・清掃を欠かさなかったようで、晩年には石の鳥居を建立奉献されました。お父上の啓裕さんは葱次郎さんの三男で、二十歳の頃東京に出て苦学の 末医者となり大阪で開業されました。先生は父上の跡を取り竹森産婦人科医院を引き継いだのです。
  さて、ここからは研究会との関係を主にお医者さんではない先生の側面にスポットを当ててお話したいと思います。先生は帰国時、特に歯を痛められており、健康維持に苦慮されていた折、46日にも及ぶ欧米医学視察行に参加されました。65歳の秋、著名な細菌学者藤野恒三郎医学博士の手記でスピルリナを知り、高核酸食を毎食摂取する実験を始められました。結果、「私の健康法—六十年の軌跡—食の原理に行き着くまで」を自費出版され、「スピルリナ(百歳)健康友の会」の理事を20年以上務められていました。また、呼吸法にも精通され西野式呼吸法を続けられ気力の充実に努められました。
  処で、先生の病院はパラオを偲ばれて…か、自らジャングルと語られるほど緑が繁茂し、当時、先生が彫塑に興味を抱かれて創作された作品を展示瞑想する場として、庭の一隅にログハウスを建設することとなり、先生とのご縁が一層深まることになりました。ボランティアとして「竹森芸術サロン大手前」「竹森健康サロン大手前」を拠点に活動も起こされました。更に芸術面では日本医師会芸術クラブ会員として、句会では号を生年の干支に因んで「子羊」を名乗られていました。
  先生は故郷を常に大切にされ、若松住吉大社前の道路を挟んだお父上の生家前に、石碑を多数建立され、地蔵堂2基も建立しました。加えて、お父上との初詣は常に住吉大社に参詣されたようで、77歳を迎えられ想い出の住吉高灯篭を復元されるべく、私を含む3名で「ともしびの会」を発起し見事に完成の運びとなりました。次に常夜灯用電源として風力・太陽光発電機も寄贈されました。
その多忙な間を縫って、「激動の大正、昭和、平成を生きる」と「遺伝子の命ずるままに 住吉高燈籠建立の奨め」を執筆され、感銘を受けられた方も多いことと思います。
  小さな身体に茶目気を帯びた大きな瞳、飄々とした風貌、暮らし方研究会の顧問倶楽部の最長老として進路を示していただいた導師的存在、文化・芸能に造詣が深くご婦人会員に多くのファンを持たれた先生。何を想い出しても今は懐かしく、心の支えを失ったような感は拭えません。
先生に感謝申し上げると共にご冥福を祈念したいと思います。
  最後に、先生の「遺伝子の命ずるままに 住吉高灯篭建立の奨め」を暮らし方研究会のHPにPDFで掲載しております。先生を偲んでご一読ください。
竹森正義先生




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