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「葵殿庭園」、 講師の江夏大三郎さんの案内 |
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「葵殿庭園」、池に注ぐ滝 |
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「佳水園庭園」前で記念撮影 |
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「佳水園庭園」・白砂敷きの「中庭」 |
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「佳水園庭園」 |
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「無鄰庵庭園」 |
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「無鄰菴」、ここで、ガイドさんのお話 |
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主屋に併設されているカフェ |
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〇セミナー参加者の感想
今年度最後のセミナー(178回目)は、寒暖差が激しくなってきた時期の11月3日に行われました。紅葉には少し早いようでしたが、その日は小春日和の気持ちよさでした。今回は、南禅寺や岡崎にほど近い華頂山のふもと、蹴上(けあげ)にあるウェスティン都ホテル京都の「葵殿庭園」と「佳水園庭園」それから「無鄰菴」に行きました。
先ずウェスティン都ホテル京都のロビーに集合後、「葵殿庭園」へ行きました。「葵殿庭園」は、京都を中心に活躍し庭園に芝生を初めて用いたと言われている造園家・7代目小川治兵衛(植治)が作庭したものです。いくつかの段階と年を経て現在の姿になったそうです。もともとは葵殿(主食堂)が建てられる以前の明治37年(1904年)に最初の作庭がなされたのですが、この時には、華頂山の斜面を植栽し、建物からの眺めを整える程度の簡素なものだったようです。その後「葵殿」として建て直された大正4年(1915年)にも造作が行われ、昭和8年(1933年)に茶室が建てられた時には、琵琶湖疏水の水を用いて、流れ、滝、池で構成した今見るような姿にほぼ整えられた庭になったそうです。しかし、植治は翌年の暮に完成を見ることなく亡くなったので、これは植治の遺作となりました。石組と大きくうねって池に注ぐ滝の流れは、浅い流れのわずかなせせらぎが大河の流れと思われる程のスケールを見せてくれ、下流の方は険しい山のような景観をつくっているかのようでした。また蹲踞(つくばい)が水の流れに溶け込むように据えつけてあって、その趣向はとても印象的でした。とてもダイナミックなお庭でした。
そこから斜面を南に上がったところに「佳水園庭園」があります。「佳水園庭園」は植治の息子の小川保太郎(白楊)によって作庭されました。天然のチャートの岩盤が斜面に露出した岩山がありその岩の迫力に圧倒されました。白楊は大胆に岩盤をそのまま庭に利用したのです。白楊は琵琶湖疏水の水を引き入れてこの岩山の凸凹を利用して2筋の水を流し、岩盤に取り付くように生えていたマツなどもあえてそのままにして、山中の急峻な滝流れを 表現することに成功します。水辺にはツワブキ、オモトなどが、岩の上や
周りには、木肌を出すため幹が磨かれたアカマツのほか、アセビ、モミジなどが、また背景には華頂山の林があって独特の眺めをつくっています。鮮やかな黄色のツワブキの花が今でも目に焼き付いています。大正15年(1926年)に作庭したものの、白楊は元号が変わったその年に43歳で病没しました。植治、白楊の最後の仕事になった因縁の庭が、やがて敷地を拡張した都ホテルの所有となったということです。
「佳水園庭園」の奥に見える岩盤庭園をそのまま取り入れた白砂敷きの「中庭」は、昭和34年(1959年)に佳水園を設計した村野藤吾の設計によって作庭されました。豊臣秀吉自ら設計したといわれる国の特別名勝、醍醐寺三宝院の庭を模して造られたそうです。緑で表現された瓢箪と杯は、岩盤から流れる滝の水をお酒に見立てています。なんとも風流だと思いました。
またこの建物の屋根は緩い勾配・薄い庇の銅版葺きが壁面よりも大きく張り出して普通の数奇屋建築とは一線を隔す、軽やかでモダンな雰囲気でした。単に建物をつくるだけではなく、外構デザインとの調和で、居心地のいい 素晴らしい住まいが誕生するのだと思いました。外構と建物は一体として考えるべきだと再認識しました。
続いてウェスティン都ホテル京都から徒歩5分ほどのところにある「無鄰菴」に行きました。ガイドさんのお話で、この「無鄰菴」という名前の由来は 「この草菴に隣家がないことによる」ということを初めて知りました。それから 「無鄰菴」に疏水を引き込む際、どうして「防火用水」の名目が使われているのか、ということも、琵琶湖疏水の建設には多額の税金が掛けられているために、京都市としては「庭園のため」では許可できなかったためだということも 知りました。この界隈にはこのような大きく立派なお庭がたくさんあるのですが、全部「防火用水」として申請しているとしたら、京都市は随分損していた(る)かも知れないと思いました。話を戻しまして、この「無鄰菴」は小川治兵衛 が多大な影響を受けた山縣有朋との出会いをもたらした庭です。広々とした 芝生とその両側を覆う木立、ゆるやかに蛇行する流れは琵琶湖疏水から引いたものです。庭の奥には、借景とされた東山がたおやかな姿を見せていま す。伽藍石などをおりまぜた遊び心にあふれる飛石が、奥へ奥へと誘うかのようです。敷地が細長い三角形になっているので、奥に行くにしたがって木々が密集する深山幽谷の趣となり、やがて三段になった滝が現れます。
これは「醍醐寺三宝院」の滝を参考にしたとされています。石の上から下手を眺めると、流れは浮島を浮かべた池となり、覆いかぶさるモミジとあいまって、美しい景観をさらに楽しめました。もう 1、2週間後でしたらさらに紅葉 が美しかっただろうかと思います。茶庭や禅寺といった象徴主義的な庭園から、自然主義的な庭園への移行の時期の庭の「無鄰庵庭園」。あるがままを基本として、自然の水の流れ、高木の梢のそよぎなどを庭に取り込んだ近代 和風庭園の代表だと思います。個人的にも大好きなお庭です。
入口の脇に洋館がありますが、ここの二階で開かれたのが「無鄰庵会議」で、1903年(明治36年)4月21日、元老・山縣有朋、政友会総裁・伊藤博文、総理大臣・桂太郎、外務大臣・小村寿太郎がここで、ロシアの満州における権利は認めても、朝鮮における日本の権利はロシアに認めさせる、これを貫くためには対露戦争も辞さないという態度で対露交渉にあたるという方 針への合意がなされたそうです。
見学が終わって和風建築の主屋に併設されているカフェで皆さんと喫茶を楽しみました。山縣有朋が眺めたというそのお部屋から眺める180度に 広がるこのお庭は、なんとも優しく私たちを癒してくれました。
いつも興味ある企画・運営をしていただき、長く活動を続けてこられた津島さん、新井さんの努力にあらためて敬意を表したいと思います。またの機会にぜひ暮らし方研究会のセミナーに参加させて頂き、皆様のお元気なお姿を拝見できたらと思っています。今回もありがとうございました。
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宇治市在住 江夏節子氏 60歳代
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