第1回
オムニバスかなかな愛(かな)し日暮れ哉 あきら
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感想文。「やさしさを生きる」を読んで
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2004年4月21日付
暮らし方研編集部宛
河原輝雄さんに届けていただいて一読後、余りにも吉村さんのことを知らなかったことを痛感しました。
知っていたつもり、誤解に基づいての判ったつもりから、吉村さんを謙虚に学ぶ努力もせず、思考停止のまま今日に至ったことが悔やまれてなりません。
本の感想を一言で述べると、「Ordinary」かてて加えて「非凡なる平凡」 「Ordinary」という言葉は以前、建築家の西澤文隆さんがなにかに書かれていた一文で心に残った言葉です。たしか、「オ−ディナリな建築こそが素晴らしいのだ」というような文脈で使われていたように記憶しています。
「Ordinary」というのは日本語でいうと「普通の」とか「平凡な」という意味です。
僕の若い頃は、いまでも残っていて困っていますが、「尖った、普通でないもの」を目指していて、「普通で平凡な思考」や「平凡な生き方」は軽蔑していたことがあって、吉村さんにはなんら関わりのない次元で敬遠していた経緯がありました。
しかるに、プロフィ−ルを見るだけでも驚き、実にハイカラさんなのだ。「平凡」どころか 「ドラマティック」。
僕が吉村さんを初めて竹中工務店の設計部でお見かけした頃は、国立劇場のコンペで一等になった岩本博行さんが設計部長で、飛ぶ鳥を落とす勢いのときでした。
そんな岩本さんから「吉村さん、もっと。。。」と大きな声で指摘を受けておられる場面に偶然、遭遇し、目が合った僕に、外人がよくする肩を上げて両手を広げる仕草で困っ たような眼をしながらも、岩本さんの興奮を淡々と受け流しておられました。その時、吉村さんの意外な気骨に触れたような気がしました。
昨年末、竹中工務店設計部同窓会でお目にかかった折も、その頃とあまりお変わりなく淡々と佇んでおられました。
細川和昭さんの迫真の写真とともに心打たれる思いです。ありがとうございました。
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私が吉村先生のことについて、ここに連載するに至った経緯は冒頭の感想文が代表理事の津島 素さんの目に止まったため。必ずしも適任者ともいえません。
他にも研究会で先生と親交の深かった方や、竹中工務店設計部で 先生に親しく接してこられた方々、適任者は多々おられると思いますが「縁は異なもの・・・」と申します。
むしろ先生とは疎遠であった私の方が客観的に記述しやすいこともあろうかと、先生のことを知悉されている方々の 支援をとりつけて、「味読「やさしさを生きる・・・」(吉村先生へのオマ−ジュ)」というタイトルで連載させていただきます。
各回毎のサブタイトルの俳句は私の駄句。読み飛ばして下さい。「やさしさを生きる・・・」からふんだんに細川和昭さんの写真を数多く引用させてもらいますのでこちらはお楽しみに。
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第2回
惜別の献花の列や冬薔薇(ふゆそうび) あきら
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2005年2月26日、芦屋ホ−ル。
無宗教葬形式で告別式が営まれました。
女性アンサンブルによる弦楽奏の調べが流れる中、ご親族、先生のクライアント、竹中工務店で先生の後輩にあたる錚々たる方々をはじめ、先生の薫陶を得た女性設計者らが多数参列。
清々しい氣が漂うお別れの式でした。
私はこの時、ふいに90歳現役で亡くなられた先生に深い感慨を覚えました。
50歳半ばで脳梗塞に倒れ、建築の仕事からも遠ざかっていましたが「90歳現役にチャレンジ」を心密かに機したものです。
この日この時を契機として私の中で「吉村さん」から「吉村先生」と意識するようになったわけです。
この年、1月25日にお見舞いに行かれた方を通じ「本の感想文の返礼として井上君に渡して下さい」と吉村邸の私的な写真と深江の外人住宅(深江文化村)の写真などが綴じられたスクラップ帳を頂戴。
こうしてW.Mヴォ−リズ(1880−1964)から先生の父君そして先生を通じて”健全なる精神の松明”が私に静かに手渡されたのも奇しきご縁と申せます。
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第3回
蹲いや青葉湛(たた)えて足るを知る あきら
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先生は「足るを知る」という精神の大切さを随所で力説されています。仏教では貪淫(むさぼり・あくどい欲)を三毒の一つとして強く戒めています。
禅の重要な教えの一つでもあり、臨済宗竜安寺の竜安寺蹲(つくば)いは、口を中心に「吾れ唯足るを知る」の偏(へん)と旁(つくり)を分解して配置した機知に富んだデザインでよく知られています。
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先生のご両親がクリスチャンだったので、生まれてすぐ洗礼を受けられました。
衣食住の生活信条は質素・謙虚を旨として慎ましく、禅僧を髣髴(ほうふつ)させられました。
キリスト教と仏教との佳き教えが先生の体内で一体化し、あたかもパンと餡(あん)とを融合させて雑種の個性をもった銀座・木村家のパンが生まれたように「吉村康雄」という新種の個性を形成してこられました。
先生の思想の一端がうかがえる「自然とともに謙虚に建てて、控えめに暮らす」という一文をご紹介しておきます。
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自然とともに謙虚に建てて、控えめに暮らす。
住まいは、家族団欒の中心であり、子供たちがその感性を豊かに育む場所であり、あるいは情報化社会で疲労した精神を解き放つ場所でもあります。そのために、欠かせ
ないのが自然との関わり。今回のプランニングにあたっては、住まいにできるだけ多くの自然を取り入れ、活かす方向で計画しています。その時、庭はとりわけ重要な要
素になります。
限られた敷地の中で、できるだけ大きな庭を確保するために、建物自身を合理的にまとめ謙虚に配置させています。日本の土地状況を考えれば、それほど広い敷地は望む
べくもなく、そんな敷地にギリギリいっぱいに建てた住宅は、結局は周辺環境への配慮を欠いた住宅にしかならないと考えるからです。
そんな努力の中で創出した庭だけに、自然の草花をたくさん植えてみてはいかがでしょう。子供たちといっしょに水をやり、やがてそのまわりに誕生する蝶や虫たちと親
しむ─—自然とともにある環境です。子供たちはそんな環境の中で、豊かな感性を育んでいきます。ふるさと—─それは子供たちがやがて成人して、厳しい社会で生きていく
時の勇気であり、エネルギーの源となります。謙虚に建てて、控えめに暮らすことで実現する、自然のある豊かな環境を整えることは、大人たちの責任だと思うのです。
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吉村邸というのは、アメリカの宣教師で名建築を数多く残したW.M.ヴォ−リ−ズの薫陶を得た先生の父君が1922年(大正11年)に設計して作られたもので、1995年、阪神大震災で損傷を受けるまで70年以上、先生ご自身が生活してこられた「生きられた住居」である実践に大きな価値があるといえます。
震災後は基礎をそのままに使い、つまりほぼ同じ間取りで、60ミリ×120ミリの角ログを壁と床に用いた先生のオリジナルデザインになっています。
これこそ「親子二代で一世紀近くの歳月をかけて熟成された、雑種としての新しい個性をもった日本の住居のプロトタイプ(原型)」といえるのではないかと思っています。
いまだに和と洋のあいまいな雑居状態に訣別できない多くの住宅に較べていかに示唆に富んでいることか、その本質をじっくり写真で味わって下さい。
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参考
「生きられた家・・・経験と象徴」 多木浩二著 青土社
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| 1st Floor PLAN |
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2nd Floor PLAN
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SECT.(S〜N)
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SECT.(W〜E)
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作図写真共、吉村康雄氏
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第4回
ジグザグと秋に分け入る遊山かな あきら
1970年、大阪万博に沸きたっている頃、先生が感動し、信州の山中に古民家を購入するという行動にまで駆り立てた「秋山紀行」とはどのような本だったのでしょうか。
平凡社の東洋文庫シリ−ズにざっと目を通してみました。文学(日本・外国)、歴史(日本・外国)、宗教・教育・思想・芸術・趣味、地誌・紀行・民俗(日本)などの分類があり、柳田国男「山東民譚」、南方熊楠「十二支考」なども入った、なかなかマニアックなシリ−ズ500篇弱の中の一篇。
著者は俳諧と書画の嗜みがある鈴木牧之(1770−1842)、校注は宮 英二(1916−1986)。
本文より校注のほうが多いという読みづらい本。
十返舎一九が出版する予定で、当時還暦前の牧之が平家の落武者伝説のある信越国境の秘境、秋山郷の生活・習俗・信仰などを絵と文で客観的に観察記録したもの。山家の構造や壁の作りなど建築的な興味もそそられますが、先生は技術的な面よりも素朴に慎ましく生きる山家の生活の様子にいたく感動された様子。
その経緯を竹中工務店、定年退職者の親睦会「きづな・14号」に「山里の想い出」という詩とスケッチで掲載されていますのでご紹介しておきます。
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山里の想い出
吉 村 康 雄
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信濃の奥の山あいに
一つ残れる古き家
いく百年の風雪に
耐へて残れるたくましさ
茅葺屋根には草もはえ
土の壁にはいろいろの
鳥やけものの穴もあり
アカゲラ、コゲラ、モモンガア
屋根の裏にぞ住みたりし
古き山家のたたずまい
じっと見入ればしみじみと
心に沁みるその姿
はるか彼方の昔より
この山里に住いして
木の実を集め薪木とり
畑を耕し炭をやく
人の姿も目に浮ぶ
春まだ浅き入山郷
一九七一年
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私はかねてから先生の自然観やヒュ−マニズムの精神について、志賀直哉や武者小路実篤ら白樺派の文士に共通する風韻を感じてきました。
「秋山紀行」のついでにといってはなんですが、しばし秋の夕暮れに遊んでみたいと思います。
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秋の風情をしんみりと味わう「秋の夕暮れ」三題。
まづ、西行(1118−1190)
心なき身にも哀れとしられけり鴫立つ澤の秋の夕暮れ
西行に手ほどきを受けた寂蓮(1139−1202)。
村雨の露もまだひぬ真木の葉に霧立ちのぼる秋の夕暮れ
きわめつけは藤原定家(1162−1241)。
見渡せば花ももみぢもなかりけり浦の苫屋の秋の夕暮れ
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秋ばかりではありません。
川端康成のノ−ベル賞受賞記念講演を一冊の本にした、「美しい日本の私 その序説」(講談社現代新書)には、日本の四季を詠みこんだ「本来の面目」と題する
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道元(1200−1253)
春は花夏ほととぎす秋は月冬雪さえて冷(すず)しかりけれ
明恵(1173−1232)
雲を出でて我にともなふ冬の月風や身にしむ雪や冷たき
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などが紹介されています。
閑話休題。
住まいを考えることは、人生の大半を過ごす生活拠点について考えることです。それ故、人それぞれの人生観が現れてくるものです。現実的な検討はもちろんのこと、一呼吸おいて、人生を豊かにする詩心についても思いを馳せてみたいものです。
なにも日本的伝統の精神を表現することだけが素晴らしいことだとは思いません。
実際の生活や空間はもっと逞しく貪欲なものです。
押さえることも、昂めることも、矛盾することも畏れず、懐の深い先生のような建築家と共に語り合って作ることが大切でしょう。
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第5回
佳き人の暮らし映すや夏の庭 あきら
震災後に先生が設計された吉村邸の構成上の特色について少し詳しく述べてみます。
60ミリ×120ミリの角ログ(柱の半分くらいのムクの木材)を本実(ほんざね)加工で飲み込ませて突きつけ、壁面と床面に一重で構成されています。
材を薄く細かく組み合わせる一般的な木造施工技術からみれば異端。木材の使用石数も多い。
また今日、喧伝されるところの「高気密・外断熱」の商品としての住宅の対極にある構成といえます。
内壁であると同時に外壁。床であると同時に天井。
60ミリの厚みを持つムクの木材の肌理(きめ)は本物。
まさにプロ好みの本格派。
先生の優しさを裏打ちする厳しさが感じられます。
木材は四季折々の自然のままに呼吸します。
夏は夏なりに、冬は冬なりに寒暑を受け入れて生活をするという意識が求められるのです。
つまり、怠惰な甘えを期待する人にとっては住みづらい家。
夏は風を通して涼をとり、冬は暖炉や薪スト−ブ
の直火で暖をとる。季節のメリハリを愉しいと思う
人には、住みづらいが、住みごたえのある家。
鳥が運んできた種が芽吹いて野趣に富んだ夏の庭に囲まれて暮らしてみるのも一興。「やさしさを生きる・・・」という本は、先生はけっして著名な建築家とはいえなかったが、日本の現代住宅の原型を作って住んだ佳き建築家だったことを物語っています。
<黙祷>
あとがき
文章は掲載されてしまえば、書き手を離れ、一人歩きしていきます。
設計した建築が設計者の手を離れ一人歩きしていくのに似ています。
そうすると、手直しも言い訳もききません。
またいろんな人の力添えを得て世に出ていく様もよく似ているものです。
研究会顧問の新井 律子さんには、編集やHPへの実際のレイアウトなどのお手を煩わせました。この場をお借りして厚く御礼いたします。
そればかりか、いちいちのお名前は、省略させていただきますが、このようなすばらしい機会を作っていただいた方、先生に関する貴重な文献を提供いただいた方、多くの方々のお力添えの賜物です。この場をお借りして御礼いたします。
殊に留意したことは、画面上での読み安さ、文字の大きさ、余白、写真の配置など。
内容の割りにスペ−スの取りすぎ、との批判もあろうかと思いますが、読み手の読み安さを大事にするのも研究会の精神。とお願いして無理を通していただきました。
これを契機に「やさしさを生きる」を一冊お求めいただければ、先生も喜ばれるのではないでしょうか。
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。
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