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峠と窯—(1) 河原輝雄 工人部会(=匠の技を活かす会)会員・都窯業(株)代表 |
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伊賀上野城から北を見ると、平地から屏風をたてたやうな高旗山脈が、遥か西へと続いていて、御斎峠はその途中の僅か鞍部のやうになっているところを通っている。 「伊賀の天は、山城の国境い笠置の峰が支え、北涯を近江の国境いの御斎峠がささえる。笠置に陽が入れば、きまって御斎峠の上に雲が湧いた。」 これは伊賀流忍者を主人公にした司馬遼太郎の小説の私の好きな始まりの部分である。氏はきっと上野城の高石垣のうえから峠に対峙する山なみを眺め前記の描写が閃いたと思われるが、毎日御斎峠をながめていてもこのような砥ぎ澄まされた文章は素人に書けるものではない。
天正十年、この峠を舞台に歴史の一コマが動く。信長の招きで上方見物に来ていた家康が、世にいふ「本能寺の変」によって進退両難におち入る。三河へ逃げ還るのに、山城、宇治田原、信楽の多羅尾を経て伊賀に道をとることになったが、このとき一行の内にいた服部半蔵正成が、前途の偵察と協力を求めるため先行して御斎峠に到り、伊賀流の狼火をあげ、伊賀・甲賀の忍者三百余名を集めたと伝へられている。家康が無事御斎峠に到着したときは、既に集合を終って家康を待っていたといふ。この事実は、服部半蔵が伊賀流上忍の位にあったから可能であったのである。峠の切り通しを埋めた忍者達に家康は大いによろこび「御辺が才覚にてこれだけの忍をよく集めしだわ。三河までも正成に任すでなん。」とでも言っただろう。そこからは家康を山駕籠に乗せ、昼夜を分かたづ駆け、山賊が横行する加太峠を越へて伊勢白子に到り、急拵への船で無事家康を岡崎城に送りとどけたのである。 伊賀の忍者を嫌った信長が、天下を目前にして命を落し、忍の者を重用した家康が危機を遁れることが出来たのは皮肉である。 さて、御斎峠から標高差にして三百米程谷を下ると杉の林がきれて視界が拡がり、上野城とそのうしろに布引山脈が見えてくる。今頃であればりんどうが草の間からのぞいている田の畔の横をいくと一段低くなった所に窯がある。窯の形状でいへば穴窯で、伊州窯といふ。伊州は伊賀国の別称であったのと、伊賀盆地と盆地を囲んでいる山々を見渡せることからそう呼んでいる。 窯の周囲は、北に峠の山を背負ひ、東は深く切れ込んだ谷、西は下からの道と雑木の林、南は棚田が下っていって、その先に(窯からは見えないが)木津川が西の方に流れている。誰も気付かないが私は風水にピッタリ当はまる土地だと思っている。風水に適う場所であれば当然窯の立地条件にも合う。 北と西に山があれば窯焚のときに風を防いでくれるし、南向きで陽あたりが良ければ薪がよく乾き、作業にも何かと便利である。谷があれば水が使へるし、永久に建物が建たないから有難い、という訳である。 十一月も終りに近くなると、山の木々も色づいて、伊賀は芭蕉が詠んだ——初しぐれ猿も小蓑をほし気也——といふ初冬の時期をむかへる。晴れていたと思ったら急に曇ったり、山鳴りのやうな音がして風が山のうえから渡ってくると、木の葉が舞ひあがる。ときおりムクドリがやってきて、残り少なくなった柿の実を突いて又何処かへ飛んでいく。 晩秋の窯は、あの日の窯焚の賑わひがウソのやうに静かである。秋から冬へ、季節は移っていく。窯は、来春また人が集ひ、火が入るまで山の木々とともに、一時の冬の眠りにつくのである。 |
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参考 「梟の城」司馬遼太郎著 新潮文庫 「忍術 その歴史と忍者」奥瀬平七郎著 人物往来社 やきもの小話−2 はこちら |
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