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峠と窯−(2) | ||||
二月に入ったある日曜日の朝、御斎峠旧道をあるいてみようと思ひたった。多羅尾の南、六呂川を過ぎると車道から分かれて左斜めに上っているのが昔の御斎峠越である。空は晴れていたが大気は冷たく、まさに「早春賦」の詩の世界であった。空を見あげると静寂の中に精一杯枝をひろげている冬木が力強く感じられる。殆ど人が通らないのかクマザサで道がおおはれているところもあり、小鳥が「チチッ」と啼きながら先へさきへ飛んでいったりした。一度下って再び上りになると右に小さな谷が現われた。日中だというのに土が固く凍てついている。見通しのきかない山道、さきを急ぐ家康一行は、山鳥の飛びたつ音にも肝を冷やしたのではと想像された。谷はやがて見へなくなりさらにのぼると林道に突きあたる。杉がうっそうとしてきて気味が悪い。足ばやにいくと左下に刑場跡があった。石碑が二基建っていて左は「南無妙法蓮華経」と読める。説明板には「——
十二月二十日、牢から出された罪人は裸馬に乗せられこの地で処刑された」と記されていた。杉から落葉樹に変化してきて車道に出ると、もうそこは標高630米の御斎峠だった。
さて、人が何らかの目的で土地を求めようとするときどんな方法があるのだろう。まず考へられるのは、知人又は不動産屋に紹介してもらう。新聞、雑誌で調べる。週末などに出かけていって探す。等々であろう。私の場合、ひそかに心の中に決めている場所があった。というのは四十数年前、小学六年生の高旗山登山で西山(といふ村)を通ったからである。内陸性気候の伊賀は秋になると晴れる日の朝冷えこんで濃い霧につつまれる。その日の朝も霧でまわりが見えない中、校門を出て皆んなもくもくと歩いていった。服部川を過ぎて少しづつ高度があがり西山まできたとき、やっと太陽が顔をのぞかせた。なにげなく来た方を振り返ったときそこには生れて初めてみる風景が拡がっていた。町や村は白い霧のうみに沈み、見えるのは水城と化した上野城と、島が連なっている様な山々のいただきだけであった。その美しい光景はいつまで経っても脳裏に焼きついていて西山へのおもいは消へなかった。
「まかしときさ、西山のKさんがええど、Kさんやったらなあ昔世話したことあっさかひ力になってくれんど」と伊賀弁で明るくいった。十二月に入ってMさんと西山へ尋ねて行った。小柄なKさんは西山で手広く土建業を営み、西山区の区長も長年やってきていて協力を求めるにはうってつけの人だった。Mさんの話しをうなづきながら聞いていたKさんは気さくに 「お世話さしてもらいますわ」と言いながら既に頭の中では見当をつけている様子で一旦村の東までいって、そこから西へ順番に見ていった。 何れも近くに谷川が流れていて人家から離れた静かなところだった。三番目の場所に着いたときは、冬の陽が倒き山の冷気が感じられた。Mさんはあたりを見廻したあと下の休耕田を指差し 「ここに窯をつくったらええわして」 といって右に向きなほると 「家を建てんのはこっちがええど」 と満面笑みをたたへもう買えたと言わないばかりだった。私は半信半疑で 「売ってくれますやろか」と聞ひてみた。Kさんはいとも簡単に答へる。 「そこは売るな」 どうしてそんなことが判るのか不思議だった。しかしこの調子なら欲しい所はすぐにでも買へる、と思ったがそうはいかない事があとで判ってくる。 Kさんには将来のことも考えて1200坪ほどお願いすることにしたが、〝人にはどれほどの土地がいるか〟は、永遠に謎である。 その目標の土地は村の5人の人が所有していた。真暗やみの夏の夜、Kさんに連られて鉄砲打のSさん宅をおとづれた。ひょいと風呂場をのぞいたKさんは 「ハダカ見たでよ」といいながらかまわずおくへ通る。風呂からあがったSさんの奥さんは 「あんな淋しいとこ、あゝ恐(こわ)、せやけどまあ物好きなことや」 と笑った。Sさんは 「買うたろいうてくれてるときに買うてもろとかんとあかんにゃって。先で売ろ思たってあんなとこいつ売れるかわからへん」 しかし他の人達はそういふ訳にはいかなかった。 犬の好きなNさんは 「ゴルフ場で売ってしもて、だで近くで残ってるいうたらあこだけやし」 村でも博識のYさんは 「あの谷(で田を所有している人達を指す)は昔から結束の強いところでなあ」というだけで暗に余所者には…と匂はす。 村を出て今は上野に住んでるAさんは 「大阪へ嫁にやるとき娘の名儀にしてやったんやが婿が極道で、はたして印(ハン)がもらえるやろか」 と暗い顔でいう。 ゴルフのハンデー8で話し好きのOさんは 「あこはええカキの木があんねんや。ようなるねん。えゝカキやねん」 と売り渋る。 しばらく進展がなかって一年近く経った頃Kさんから電話があった。 「NとYがどうしてもウンといわん。もうアカン。ワシの力不足で申し訳ない」 私は一瞬ことばを失なった。Nさんの土地は構想の中心に位置していてSさんとOさんが売ってくれても飛びとびになってしまって大巾に利用価値が下がる。Kさんもそれは判っているから 「別のところにしようやないか」 といって後日、村のまだ行ってないところを時間をかけて廻ってくれた。二、三日考へたが新しい所はどうも気が進まない。二者択一、思いあまって上野のMさんに電話で聞くと 「飛んでてもええど、買うとき買うとき、買うといたらなあ、今売らへんいうてる連中もさきで買うてくれっていうてくんど」と諸葛孔明のような事をいった。その後すぐKさんに 「売ってくれるとこだけでもいいから」とお願いする。Kさんは不機嫌そうに 「面白ないなあ」 と電話のむこうで呟いた。 次の年の7月になってKさんから待望の電話が入った。 「SさんとOさん一応承諾の返事いただきました。AさんにはSさんから話しつけてくれるように頼みました」 いよいよ具体化に向けて動きだしたと思った。ビールで乾杯する。 最終的にOさん、Sさん、Aさんの3人と話しがまとまり、五条申請(農地のまゝ買えないので)、売買契約、移転登記、そのあと開発申請(これがまた大変だった)、開発工事と進んだ。その間にも西山区、水利組合、農業委員、隣地所有者の同意や立会い、村の集会での説明なども必要であった。 そのときは何もかも夢中であったが、今考へてみても、土地の値段が高騰していたのと、売りに出ていない土地を売ってもらうというのはいかに難しいことであるか痛感させられるのである。因にNさんとYさんはその後買うてくれとは言はないが、相次いで 「使てくれたらええ」 ということで借りている。 いろいろと紆余曲折があって、やっと小さな窯が完成したのは、Mさんと共にKさんに初めてお願いした日から、実に8回の〝春は名のみの風の寒さ〟を感じることになる年の夏のことであった。 |
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