論文あり、旅あり、食あり、涙あり…と、示唆とウイットに富んだ内容をお愉しみください。 |
地下足袋日記 1 2 3 4 イギリス編 | |
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味読「やさしさを生きる…」 1 2 3 4 5 | |
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やきもの小話 1 2 3 4 5 6 | |
35日間の熟年夫婦の旅日記 1-1 1-2 2 3 4 5 6 |
アルヘシラス→ガディス→セビリア→メリダ |
アルヘシラス港と、港内に浮かぶラリニア島 |
ロンダからアルヘシラスへの列車からの眺めは、日本の風景を見ているようだ。緑も多く、山・川・谷ありと変化に富み、今まで目に触れてきた赤茶けた大地や荒野ばかりの連続に、この景色には絶景に遭遇した思いだった。 ロンダ出発が午後も遅い時間だったので、「アルヘシラス」に着いたのは、太陽も最後の光りを精一杯放っているような眩しい夕方だった。駅前に出て、ペンキも薄剥がれて判読しにくい看板を見ていると、日本の学生さん風の男性が一人、旅行カバンをひいてこちらに寄ってきて、「町へはどう行ったらいいでしょうかネ」ととっさに聞かれて我々も今、同じ列車で着いたばかりで、土地の地図も入手していないので返事に困った。その内にお互いが正反対の道へ歩いてしまった。もう少し余裕があれば手元の資料を見て方向を見定めて教えてあげればよかったかなと、少々心配になった。 ここ「アルヘシラス」は、「アルメリア」と同様、汽車の終着駅。ここからイベリア半島を北上しようと思えば、次の都市は「カディス」からの出発しかない。従ってつなぎはバス利用しかないという南端に位置するところで、アフリカへ渡る人々の拠点となる町だ。フェリーで二時間半あれば対岸、モロッコの「タンジェ」や「セウタ」へ渡ることが出来る。そんなわけで、埠頭の道沿いには乗船のチケット売りが客の呼び込みをして賑わっている。彼等にとってバックパック姿の二人連れはいい鴨に見えたのかも知れない。しつこく呼び掛け手まねきされるが、我関せずで、ただひたすら安ホテルを求めて町へと入った。 なにしろ色黒の皮膚、ちじれ毛、体格の良さ、一見しての人種の違いには、やはり接触の少なかった日本人にとっては戸惑いを感じてしまう。予定では、ここへ来たらフェリーを使ってモロッコへの一日ツアーも考えていたが足踏みをしてしまった。 ホテルは結構軒並みにあって、二人で5,500円程度のがみつかり、すぐその足で町中へ出掛ける。仕事帰りの人でごったがえし、夕方の買物で店は活気に満ちていて、男性の買物姿も多くみかける。我々の旅程も半分位、ここ一両日簡素な食事が続いたので、夕食はちょっと張り込んでホテル代並の支払いで満腹感を得ることが出来た。食後は、皮革製品やアフリカの民芸品など、立ち並ぶ店のウィンドウショッピングをしながらホテルへの道を、行きとは別のルートをとりながら、夕陽もすっかり落ち、アルヘシラス港に停泊中の大型船のすき間から港内に浮かぶラリニア島にともる明かりを見ながら帰り着いた。 朝はホテルで熱湯がもらえたので、「アルファー米」でおにぎりを作った。旅行好きの友人が「アルファー米」は便利でいつも重宝しているとすすめられていたので、今回初めて5袋買って持ち込んだものの、スイスの友人から借りてきた携帯の湯沸かしのソケットが三本足の為、スペインでは使えずにいたからだ。二本足のソケットを買おうと、バレンシアやマドリッドの電気屋で探したが、そんなものはないと言われ、そのまま持ち歩いているのだ。 さて、列車が途切れているアルヘシラスとカディス間は、前にも述べたようにバス利用でつながざるを得ない。バスターミナルは駅に近いところにあり朝九時半出発、約二時間半のバス旅行となる。たまにはバス旅行も楽しいものである。 遠く対岸はモロッコ、地中海と大西洋に分かれるイベリア半島の最南端を走ることになり、まさに感動ものだ。大西洋からの海風を利用して発電しているのだろうか、真白い二枚羽根の風車が山や丘の傾斜地に方向を少しずつかえ林立している。まるで白い針山に見えるほど夥しい数である。オランダやデンマーク、アメリカの西部などでみる風車の数の量ではない。本当に魂消る風景だった。 「カディス」の町へは、丁度正午にスペイン広場横のバスターミナルへ到着。カディス港を挟んで向こう側には列車の出発駅も確認できた。十四時発を予定しているので、ここでの滞在時間は二時間のみ。パンとジュースを早食いし、重い荷物も苦にならず、脱兎のごとく町めぐりをやり遂げた。かのコロンブスが、アメリカ大陸を発見した時の出発港はここからだったと言う。この地で誕生した作曲家ファリヤの墓があるカテドラルをはじめ、ローマ時代の円形劇場跡などここでも遺跡めぐりが中心となった。露地の角には朽ちた家の白壁に屋根付きの小さな祭壇がはめ込まれ、キリストやマリア像が祭られ、花や供物で飾られている。日本でもよく見る道祖神や地蔵さんの類かなと、万国共通の次元で考え守り継がれているようにも思われた。 |
パルマ広場にある教会堂の入口 |
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エディフィシコ広場 めずらしい絵タイル貼りの噴水 |
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カディスのスペイン広場(1812年建造) |
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カテドラル 1402年〜100年かけて建造されたもの |
カディス駅を発って北上すること二時間、進行方向左側(西)はスペイン最大のドニャーナ国立公園が広がり、湖の周辺に広がる湿地帯が延々と沿線まで迫っていて、野鳥が飛びかったり砂浜に降りてきて餌を探している光景もみられた。遙かこの奥地に生息する野生の動物はどんな状態で自然と共存しているのか、勝手な想像をめぐらしていた。 「セビリア」へは、夕方四時、サンタ・フスタ駅に到着。 町の中心地エン・カルナシオン広場までは徒歩で30〜40分、かなり遠いのでバス利用がベターだと観光本に書かれている。きょうは、カディスで強行手段をとったので、時には楽ちんしようと公共交通機関のバス利用を決めたものの、乗ったバスは確かに目的地へは着いたが、町の周囲を迂回しながらの運行ときているからしっかり40分はかかってしまった。地図上で直線の距離に近い道をたどれば半分位の時間で来れたかも知れない。バス乗車を決めた事が運悪い結果になった。やはり貧乏人は歩きなさいと言われているようなものだ。日本の運送業社の宣伝文句ではないが、「玄関から玄関まで」という便利さは、時には魅力があるが旅では面白さは半減してしまう。土地の人に道を尋ねたり家並みをギョロギョロ見渡し、道草しながらの探訪をしないと、その土地の特徴がつかめないし、印象さえ残らない。 ここセビリアはアンダルシア県の代表都市、オレンジの街路樹、ジャカランダの紫の花、観光用の馬車、それにゆったりと流れる大河、グアダルキビール川、この川は90km下って大西洋へ注ぐ。町のシンボルの一つである歴史的建造物の「カテドラル」、ここはスペイン最大の規模を持つ寺院で、イスラム寺院の名残りを思わせる様式が方々に見られる。拝観はフリーだが、やはり半ズボンや袖なしの服は禁じられていた。内部には王室礼拝堂、合唱壇、祭壇、コロンブスの墓などあるが、薄暗く拝観者が多い為、手を繋ぐか、服をひっぱっていないと見失ってしまうほどの混雑だった。隣にある鐘楼「ヒラルダの塔」(97.5m)は町のどこからでも見えるが、すぐ前の広場からこの塔全体を写すのに、主人はずいぶん苦労しているようだった。 十二世紀、イスラム教徒によって建てられた塔の上に、更に十八世紀に入ってルネッサンス様式の頂上部が加えられたものらしい。さて、高い所へ登ることが好きな我々、一人300ペセタを払って歩き始める。実はこの塔は高さ70mのところまでは階段ではなく、小窓から射し込む自然光の明かり、高い石壁にはさまれた緩やかなスロープの石畳を登って展望所へたどり着く。ここからの眺めもまた素晴らしい。 文学、音楽、演劇史上、数々の物を生み出したセビリアの地がどれほど有名な町か見ごたえのある塔だった。 この地は明日も見物できるので、とりあえず陽が沈むまでは外歩きに精出した。 アルカサル入口を見た後、グアダルキビール川の沿岸へ、その川にかかるサン・テルモ橋の袂にある、正十二角形の塔「黄金の塔」は堂々たるもの。ただし黄金色ではないが時代の重みを感じさせる建造物である。河川敷には遊園地あり、スポーツ用のコートあり、植物園ありで、イサベル二世橋までかなりの距離を散歩した。川沿いから離れて町中へ出る手前に黄金壁でめぐらされた「マエストランサ闘牛場」があり、なんとはなしに威厳をもった建物に見えた。この近くのカフェ・レストランへ入る。カウンターの腰板は絵タイルで闘牛場での場面をこまかく描かれており、白壁の飾りには何頭分かの牛頭の剥製が使われ、更にシャンデリアにあらず、干し肉になった牛の足が何本もぶら下がっていて、まさに闘牛場指定の店かと思うほど牛ずくめの装飾だ。そんな中で、これまた干し肉やオリーブの実をあしらったオードブルとラザニアで夕食をとる。干し肉は注文の量に応じて店のお兄さんが干した足の太モモあたりを丁寧に小刀でスライスしてくれる。写真も撮らしてもらい楽しみが加味された。 オリーブの実は土地の人にとっては常備菜みたいなもの。市場には大きな木桶に天こ盛りで売られている。塩漬けで新しいものは緑のまま、古漬けは黒く、日本でいうお漬物と同じ感覚で口にしているようだ。私はピザ作りには欠かせない食材としていつも買い込んで持ち帰ることにしている。大きなビン詰めで重たい荷物になるけれど、日本で買えば結構高値、やはり主婦となれば重たいなんて言っていられない。ついでに「ケッパー」や「アンチョビ」もと欲張ってくる。この時ばかりは主人も苦笑い。でも私としては得をした気分になるから男性と女性の思考の差かなと思ってすましている。 この町でも目抜き通りのレストランの二階にあるプチホテルに泊まる。あの「カテドラル」まで100m足らずのところだから明日の行動が早ければ再度訪れることができる。夜十時過ぎはスペインでは宵の口。階下のお客さんはにぎやかに食事、談笑中。我々はそんな騒ぎも子守歌に等しく、歩き疲れた身ではベッドに入ったらもう夢中。ところが夜中一時を過ぎれば通りは清掃車のゴミ集め、クリーナー、散水の音で目覚め、カーテンのすき間から仕事の様子をみて、日本でも夜中に道路の清掃をやっているのかなぁーと、あまり夜遅く外出する機会のない我々には、ことの外感心してしまった。 |
ライトアップされたイスラム寺院の名残り漂うカテドラル |
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セビリアの町で有名な建造物 ヒラルダの塔 |
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97.5mのヒラルダの塔から見渡せるセビリヤの町 |
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サン・テルモ橋の袂に建つ正十二角形の黄金の塔 |
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グアダルキビール川 セビリヤの町から90km下って大西洋に注ぐ大河 |
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スペイン広場 1929年スペイン、アメリカの博覧会の為に造られた建物 |
二日目のセビリア、荷物は当然ホテル預けにして、夕方四時半、カセレス行き(普通列車は一日一本しかない)に乗車するまでが勝負とばかりに早朝のコーヒーのみでスタート。欲張りの気力でなるべく遠い見所からアタックしようとスペイン広場へ向かう。シュロやプラタナスの並木で区割され緑一杯の公園「マリア・ルイサ公園」、汗ばんだ身体にはこの木影がとても清々しい空気を生み出しているのがよくわかる。ここを通り抜けると目指す「スペイン広場」へ着く。1929年に開催されたスペイン・アメリカの博覧会会場として作られたところで、隣接して官公庁の建物もあり、大通りには二重、三重に観光バスが駐車して各国からの観光客で賑わいを見せている。さすがに宗教とは無関係の場所だけあって、短パン、タンクトップ、かと思えば仮装行列にでも着るような服をまとっている人、etc.ボンやり人の動きを見ているだけで楽しくなる。 さて、この建物、半円形のアーチの回廊の手すりの下に並んだモザイクの絵は、スペイン各県の特長や歴史を描いてあり、遠くからみると油絵ではないかと思えるほどだ。スペインの色タイルの精工技術の高さにまたまた驚かされる。もう一つの見所、「アルカサル」は、十四世紀、イスラム教とキリスト教の文化が融合されたムデハル様式の典型がここには存在すると言われているので入館する。「人形のパティオ」、「大使の間」、「乙女のパティオ」「提督の間」・・・。どの部屋壁もモザイク模様、調度品の立派さにも感激するばかり。またアルハンブラ宮殿を思い起こしてしまった。中庭に出れば紺碧の空の下、珍しい木々の花々が植えられ、小粋に配された噴水。時間があればゆっくりベンチに腰掛けて過ごしたい気分だった。 アルカサルを出てすぐに細い露地の多い「サンタクルス街」(かつてのユダヤ人街)に入り各々の家庭が趣向を凝らした重厚な門扉や玄関のドアー、外壁はおおむね白や黄色、色とりどりの花が人々の目をさそいこむように咲き乱れている。古いランタンも一層その景色に花を添えている。 まだまだ方々に足を進めたいのに主人の写真撮りが遅々として進まず、先を急ぎたい私とレンズを通して気に入った物に熱中する主人との差が、時間が少なくなってくると少々苛立ってくる。放っておいて迷子になってしまわれても困るし、諦めの境地で妥協せざるを得ない時もある。 目一杯行動して駅までたどり着き、「メリダ」行きの列車に乗る。金曜日の夕方とあって、制服の中・高生らしき男女がかなり乗り合わせている。大きなスポーツバッグやリュックの恰好をみると、セビリアで下宿して週末、実家へ帰宅するような車内の雰囲気だ。スペイン語と日本語ではどうにも噛み合わないことはわかっているので片言の英語で話しかけても、ニコニコしてまともに返事が戻ってこない。それでも日本人には興味あるらしく、学生同志で話がはずんでいる。我々が「メリダ」で下車することだけは了解できたとみえて、男子学生の一人が自分もそこで降りるから知らせてくれると言う。途中一人、また一人と学生さんが下車していく。きっと彼らは一家団欒の夕食を心待ちにしているのだろう。「メリダ」までの五時間は、山中へ入り込んで行くような森の中であったり、時には視界が明るくなって牧草地であったり、夕方のせいもあってうらさびしい風景だったが、落日の瞬間は見応えのあるものだった。 |
回廊のアーチ型の手すりの下壁に装飾された絵タイル (スペイン各県の歴史的絵がずらりと並ぶ) |
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アルカサルの入口 |
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アルカサル内 庭園の一部 |
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かつてのユダヤ人街 サンタクルスにあるユダヤ教の教会 |
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九世紀に築かれたアルカサバの一部 |
夜九時、メリダ到着。終着のカセレスへはまだ30分位かかる。車内も四・五人残るだけ。ここで下車すると言った学生さんは目で知らせて降り、そそくさと家路についた。が、さて、我々はこれから宿探しをしなければならない。駅の周辺の数少ない宿泊施設は、金曜日の夜とあってすでに満杯。日本人びいきの宿の主人が気の毒そうに断り、もしかしたらもう少し歩いたところにレストランのホテルが空いているかも知れないと教えてくれ、そこを尋ねた。かろうじて二階と三階の踊り場を利用して設えたような小部屋(簡易ベッドが二台と洗面所あり)を案内され、ここで良かったらと言われたが、良いも悪いも宿れる場所が確保されただけでもラッキーと思わねばならない。それほど週末の観光地は人が集結しているということだ。一泊素泊まりで二人8,500円は高いが、夜遅くの到着では無理もないことだと諦める。起床して窓の外をみるとこのホテル、名称が「セルバンテス」、丁度、駅の正面から登り坂にかかる三又路の真中に建っていて細い六階建になっていた。それにしても週末だというのに騒音に悩まされなかったところをみると昨晩は静夜だったのか、疲れ果てての熟睡だったのか。階下のレストランでいつものようにパンとコーヒーだけの朝食。昨晩部屋を案内してくれたマスターに飲料水をもらって、今日もここをポルトガルの「リスボン」に向けて出発する午後の二時過ぎまでを積極的にアタックすることにした。「メリダ」は現在人口四万のひっそりとした地方都市に過ぎないが、紀元前25年には、ローマ帝国の主都として繁栄したところ、その当時の名残りとして堂々としたローマ遺跡が二十ヶ所余り存在し、そのすべてが生活の一部となって今日に至っているという。そして、いまだに町の地下にはたくさんの遺跡が眠っており、我々にとっては魅力たっぷりの訪問地だ。 昼食も後まわしにして歩を進める。ディアナ神殿を金網越しにながめた後、広大なアガタ遺跡へ。紀元前一世紀に闘技場として作られた円形劇場、その隣には更に6,000人も収容出来るというローマ劇場があり、舞台の背後には32本の大理石が神殿風に配され、この舞台に上って手をたたくと半円形に設けられた客席の方へ反響するほど野外劇場のつくりが精巧だ。 旧市街の南部を流れるグアディアナ川までやってくると、この川岸にある九世紀に築かれたアルカサバ(要塞)が目立つ。ほとんど手つかずの広大な廃墟であるが、中にはプレハブ小屋もあり、紅白のテープがところどころに張りめぐらされているから、少しずつ調査・整備がなされているのだろう。すり減った石畳や壁、庭園らしき形態を遺した石組、子供達の遊び場にはもってこいの環境だ。訪れる人もまばら、我々だけが意気揚々と巡っているみたい。 ここからの眺めは、前方にローマ橋、792mが美しい石組の姿で架かっていて、往時をしのばせるに充分な威厳を持った橋だ。新市街は橋向こうに広がり、毎日の往来にも利用され、今日なお綿々と続いていることになる。 人間が有している優しさ、力強さ、すべてが遺跡と共存している町。こんな土地にどっぷりと浸って生活できるのが実に羨ましい。 持参の紅茶とハムサンド、バナナで腹拵えをして、最大の関心事、遺跡の上に建っている国立ローマ博物館へ行く。ここメリダの地で発掘された遺物の展示がされていて、実に莫大な量の考古学品(ローマ時代の彫刻・貨幣・宝飾品・陶器・ガラス製品・モザイクをはがしとった壁・・・)が陳列され、どれも本物ばかり。写真撮影はストロボを使用しなければ許可されている。大きな建物である為、一階の監視は厳しいが上階では監視の目は少ない。時には手で触れたり持ったり、写真は思う存分とれた。建物の地階はまだ発掘中の状態で自由に見学出来、申し分なしの入館であった。いつも頭を打たれる思いになるのだが、よくぞローマ人が遥々とせめ入ってきて建造物をやたらと作ったものだと、今さらながら、いつの世も宗教戦争や侵略は歴史の事実として存在し続けるものだと。 |
遺跡アルカサバの傍を流れる グアディアナ川に架かるローマ橋 |
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メリダで発掘された遺物を展示している ローマ博物館内 |
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レプリカでない、古代建造物の壁面そのものが展示されている |
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博物館周辺は全面遺跡がむき出しのままで 床の絵タイルの上を歩くことが出来る |
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