論文あり、旅あり、食あり、涙あり…と、示唆とウイットに富んだ内容をお愉しみください。 |
地下足袋日記 1 2 3 4 イギリス編 | |
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35日間の熟年夫婦の旅日記 1-1 1-2 2 3 4 5 6 |
一陶芸家の見果てぬ夢の地 音羽(おとわ) |
「淋しさうでしたよ、Bさんの奥さん」信楽で穴窯をやっておられるHさんから音羽の話しを聞いたのは一昨年の春のことだった。広い音羽山房には、B氏の未亡人と弟子が一人いるだけだったという。 そのとき私は、大阪の陶芸展でB氏と並んでにこやかに客を迎えていた、和服姿の美しいB婦人を思い起こしていた。なるべく早く現代の、『高野聖』の世界のような音羽を尋ねてみたいと思ったが、その年は生憎(あいにく)忙しく、音羽のことは忘れるともなく忘れてしまっていた。 翌年の夏、裏白トンネルから信楽へ向かって車を走らせていたとき、ふと音羽が記憶に甦(よみがえ)った。『高野聖』の婦人と、B未亡人が夢想のはてに重なる。 小説では、高野の旅の僧が飛騨から天生峠を越えて信州松本へむかう途次、ヘビや山ヒルに悩まされながら深山で一軒の山家にたどりつく。そこにはもの優しい婦人(おんな)と白痴の少年が住んでいた…。北陸敦賀の宿で、旅僧が昔を回想する不思議な物語である。 車はなだらかな山間の道を軽快に走る。信楽南新田を過ぎ、桜峠から丸柱へでる。曲がりくねった道添いには春ならピンクのミツバツツジと、ムシカリの白い花が緑の中に点在しているあたりだ。一つ山を越へて諏訪に至り、人家の途絶えた道をさらにいくと、やがて広い三叉路の、杉林が背景になった「音羽口」バス停があらわれた。ここから東へ緩やかな道を下っていくと、音羽の里はほど近い。 |
天正九年九月、伊賀を攻略する為、織田信長は、五ツの峠から五万近い大群を攻め入らせた。指揮するは、丹波長秀、蒲生氏郷、筒井順慶、浅野長政など歴戦の戦国武将たちである。伊賀連合軍は十倍を超える敵を相手に果敢に戦うが、砦は次々に陥落し、老若男女は皆殺しにされ、逃れた者は他国へ落ちのびていった。 戦いが終わり、戦火の余燼の残る伊賀を視察に訪れた信長は、一之宮の南宮山に上って伊賀を見渡し、立ちのぼる煙をみて戦勝気分に酔う。 山を下り、敢国神社(あえくにじんじゃ)へ休息に立寄ると、「右府殿 御首をお洗い置き候へ」と松の幹に貼紙が打ちつけられていた。このとき音羽の城戸ら三人の忍者が秘かに忍び寄り、杉の木の陰から一斉に鉄砲を発射した。警戒していた近衆がとっさに弾除けとなり、危機一髪で信長は助かる。家来達はすぐ後を追ったが三人は飛鳥の如く逃げ去った。 音羽の城戸は、本名城戸弥左衛門といい音羽で生まれた。忍術書、『萬川集海』では十一人の忍術名人の一人に数えられている鉄砲の名手であった。「その声だけでなく、その名だけで万人を戦慄せしめていた」(ルイス・フロイス)信長を狙う事は死を意味した。事実、元亀元年甲賀忍者杉谷善住坊は、京から岐阜に戻る途中の信長を鈴鹿山中で狙撃し、失敗して逃げていたが四年後に捕えられ、岐阜城下で首から下を生き埋めにされ、鋸引(のこぎりびき)の極刑で殺されている。音羽の城戸は、伊賀忍者の意地にかけて自分の住む村と菩提寺西音寺、さらに伊賀全土を焼き払った信長に復讐しようとしたのであった。 盛者必衰のことはりの通り、信長は翌天正十年六月本能寺に於て、伊賀の神社仏閣を焼いた神罰がくだり、非業の死をむかえることになろうとは、神ならぬ身の知る由もなかったのである。 「音羽口」から東の山の池の左を入り、緑陰の下を往って辿りついた旧音羽山房は、既に人の住む気配はなく、夏の強い陽射しだけが幾棟もの茅葺屋根を照らしていた。荒れて放置されている、時代劇のセットさながらの光景である。まさしくここは、噦兵どもが夢の跡器であった。気味の悪い静寂が建物とまわりの山を覆っている。 私は、栄枯盛衰の過去に思いを馳せ、しばらくそこに立ちつくすばかりであった。 |
うしろの略歴をみると、千九百四十一年京都で漆芸家番浦省吾の四男として生れ、日吉ヶ丘高校を出て鎌倉の河村熹太郎に師事し、音羽へは六十七年に来たことになっている。七十二年に日本橋高島屋で第一回個展を開き、それから毎年、東京、大阪、京都で開催している。 上記数多くの作品が生み出され、活気があった当時の工房の様子を、巻頭の四人のうちの一人、瀬戸内寂聴の文章の一部から紹介したい。時期は八十年代始め頃と推測される。 「……番浦さんは作務衣を着て、まるで十年の知己のように迎えてくれた。山の中を自分で切り開いたという場所は明るく、そこの工房は、番浦さんより更に若い人がすでに数人集まって活気があった。私はそこではじめて、番浦史郎さんは日本画家加山又造さんの義弟だということを知った。(略)道場のように板の間の多い母屋では炉が切ってあり、そこで番浦さんは御自分の作品の上に御自分で手造りの料理を盛ってご馳走してくれた。お皿も、おちょこも、徳利も、みんな番浦さんの作品で、山からとってきた山菜や、裏山に番浦さんが植えた栗の林の栗の実の料理などがつぎつぎ出され、私はすっかり御馳走になってしまった。その食器づくりや手製の料理の盛付などは北大路魯山人を連想させた。(略)加山さんがいつのまにか、番浦芸術村へ別荘を建て、加山さんの絵付の番浦さんの陶器という超豪華な組合せの芸術が生まれている。加山さんがお皿をあげるといったので、私は買わずにじっと待っているのに、二人の作品は年毎に有名になり値が上がりつづけて、私の所には一向に廻って来ない。(後略) 流石(さすが)、筆をもってやんわりと高価な皿をねだっているところなどは、女流作家の面目躍如の感がする。 しかし、本の内容からは上辺のことしか解らない。それから亦何日かして私は陶芸家のKさんが昔、何かの折しゃべっていたことを思い出した。「槇山のTさんは、番浦史郎の一番弟子やった人やで」幸いTさんならKさんの個展で顔を会わせたことがある。 私は早速Tさんに電話を入れてみた。電話に出たTさんは、夕方の六時頃であるのに口に何か入っているようだった。「もう夕御飯ですか?掛け直しましょか」というとTさんは、「ええで、ワシら貧乏人は、なるべくカネ使わんように夜明けとともに起きて、日ぃ暮れたら寝てますのんや。そしたら電気代もえろうかかりまへんしなァ」と、笑いながら屈託がない。 以下は、私の質問に答えてくれたTさんの回想話しである。 ———まず、番浦史郎は幾つで音羽へきたんですか。どんな理想に燃えていましたか。 「まだ独身で二十六か七のときですやろ。絵描きや陶器屋を阿山の(音羽のこと)ど田舎にあつめて光悦の鷹ヶ峰のような芸術村をつくりたいと大きなこと考えていはったん違いますか」 ———彼は色絵を得意とする陶芸家やったと思いますが誰を目標にしていましたか。 「北大路魯山人と尾形乾山の二人ですやろ。番浦さんが習うた河村熹太郎は魯山人の弟子やったんですから」 ———乾山は重要文化財になっているものも多いですが。 「乾山が向付や皿のもとをつくり、兄の光悦が絵付してますやろ。番浦さんのつくった皿かなんかに加山又造さんが絵付したようなもんですわ。将来重文になるかって(なぜかしばらく無言)なんともいえませんなぁ」 ———沢山建物建てていってますが、そんなに儲かってたんですか。 「そらあ一回の個展で四、五千万円の売上げがありましたんや。せやけど遣うカネも桁違いでした。幻の酒でもワシら一本でもなかなか買えませんけんどあの人は新潟からトラックで運ばしてました。ふつうの経済感覚と違うてましたなぁ。それに後援者もいてました。今でいうパトロンですわ」 ———建物はそれぞれどう使っていたんですか。 「左手前の茅葺は絵付用。右の茅葺は番浦さんらの住まい。左へ下ったとこは窯と作業場、一回建増ししてあない大きなってますのんや。左上の奥の茅葺は、噦郭庵器いうて立花大亀和尚が京都から毎月客連れてきてお茶会につこうてはりました。床板は大徳寺三門の古材でっせ。右の奥の茅葺は加山又造さんの別荘。真ん中の未完成のあれは迎賓館ですわ。ものすごい木つこうてますやろ。三億とも四億ともいわれてますのんや」 ———西に大きなグリーン残ってますが、グリーンがあるいうことはティーグランドもあったんですか。 「噦あしわらの池器の土手狭いですけんど芝おいて打てるようにしてありましたんや。七番アイアンくらいで打ったら、池越えで丁度のったんですわ」 ———Tさんがおられた頃は、お客さんも多かったですやろね。それに園遊会ていうのもあったんですか。 「そうですな。京都、大阪以外では東京からの客が結構いてましたなあ。大きな商売やってる人やら、デパートの美術係、ギャラリーのオーナーや古美術商、料亭の女将などです。 園遊会ていうのは春と秋の年二回でした。各界の名士を三百人ほど招待してそれは盛大なもんでしたで。政財界人からジャーナリスト、女優、横綱、プロゴルファーから祇園の舞妓はんまで呼んではりました。秋やったらこの辺のマッタケ全部買い占めてしもうてました。 そやけどあの頃は山の中にいてもよう人がきて賑やかでしたしおもしろかったですわ。もうあんなことはありませんなぁ。遠い夢ですわ、とおい…」 Tさんは呑みながら話してくれていたのか電話の声は小さくなっていくようだった。私は、つい長電話になってしまったことに気付き、丁寧に礼を言って受話器をおいた。 Hさんの語った番浦未亡人の淋しさは何であったのか。二十代に京都から草深い音羽に嫁いできて珍しかった山中の生活。夫とともに夢を追い続け築きあげてきた音羽山房。夫の才能を慕って集まってきた弟子達のこと。都会からの客を迎えたときの晴れやかさ。愉しかった日々が映画のシーンの一こま、ひとこまのように脳裏に蘇えってくる。もう間もなく三十年間住みなれた土地を出ていかなくてはならない。そんな目眩(めくるめ)く惜別の思いであっただろう。 顧みれば、七十年代、八十年代が番浦史郎の全盛の頃であったと思われる。九十一年、バブル経済が崩壊してからの彼を知る術(すべ)はないが、九十年代終りになって、病魔が強健な体を蝕み、彼が心血を注いだ広大な音羽山房は、完全に終焉のときをむかえたのである。 彼は三十八年前、夢と情熱をもって一人で音羽の山を切り拓き、現代の芸術村を造ろうと志し、美しい色絵の作品を生み出した。彼は世間の常識をこえるスケールで夢を追い続け、力尽きて斃れる。番浦史郎は音羽に壮大な夢を見たのであった。それも永遠に見果てぬ夢を……。 |
参 考
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おわり |
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