暮らしの読み物

部会や倶楽部の会員の方々のご協力により寄稿されました。
論文あり、旅あり、食あり、涙あり…と、示唆とウイットに富んだ内容をお愉しみください。


地下足袋日記   1   2   3   4   イギリス編
「遺伝子の命ずるままに 住吉高灯篭建立の奨め」   1  (PDF形式)
味読「やさしさを生きる…」   1   2   3   4   5
ロハスライフ   1
あかりと遊ぶ   1   2   3
アイビー文化を楽しむ   1   2   3   4   5
やきもの小話   1   2   3   4   5   6
35日間の熟年夫婦の旅日記   1-1   1-2   2   3   4   5   6


「アイビー文化を楽しむ」—(1)
新川 徹 OB達人倶楽部会員
  今回は、専門的な知識があるわけではなく、ただ片寄ったこだわりだけで自分で正しいと思い込んでいる愚かな男の話であることを前段にお断りをしておきます。
  そもそもアイビーファッションの始まりは何と言ってもVAN・JACなくしては語れないと思います。このロゴを私が友達から知ったのは中学2年生(1964年)東京オリンピックの年だったと思います。今から思えばおかしな話ですが、友達の中には学校の机にVANの文字を彫刻刀で彫り、得意顔をして自慢げにしているやつらは当時としては少し不良学生扱いでした。
  私も興味はありましたがお金もないし、不良扱いされるのも嫌だったので高校生になるまではと我慢することにしました。ただオリンピックの印象は強烈に覚えています。特にアメリカ選手団の入場行進は(全員カゥーボーイハットを着用していたと思ったが?)ぞくぞくとする興奮を覚えるカッコよさでありましたし、特に競泳100mのショランダー、陸上1万mのミルズ、この二人の髪型などはアイビーファッションを代表するものであったと鮮明に覚えています。
  VANの製品をはじめて手に入れたのは高校2年生の夏でした。Tシャツ2枚とコットンスラックス、ソックス3枚、スニーカー、etc、VANの紙袋、値札までが私の宝物だったのです。Tシャツ、トレーナー、スイング・トップ、ニューポート・ジャケットなど当時では新鮮な響きのネーミングでした。Tシャツといってもメリヤスの下着でありますから、母から「そんな物1枚で街へ出ちゃいかん!」とよく言われました。ポケットが付いていて一応区別はあったのですが…。
  それとVANグッズはすばらしいものでした。物が豊富な現在よりも引き付ける魅力があったと思います。こだわり、心があるグッズなのですョ!トレー、ロゴ入りロックグラス、コーヒーポット、石鹸、マッチ、靴べら、(目で見ないと感激はないが)、紙袋は現在も2〜3枚はあると思います。一枚10万円でも私は売らない!いや値段ではない!この価値がわかる方が現在何人おられるだろうか?と年を重ねるたびにそう思うのであります。ある雑誌に隠れアイビーが50万人いると書かれていたことがありましたが、今回の手記でお話相手をしていただける方が見つかればと思っております。
馬場啓一編著/くろすとしゆき協力
発行所/株式会社立風書房
1979年12月15日発行
  VAN製品に夢中になった日々の話にもどります。実は私は進学校への道に失敗をしています。自分の努力の無さを棚にあげてはいけないのですが憧れの大学生活には縁がなかったのであります。青春時代の自分なりの構想の第一歩がもろくも崩れ去った時期でありました。しかし、この暗い青春時代の隠れ蓑にVANは心の支えになり、自分に暗示をかける最高の手段であったのです。
  ゆえに、就職し自由になる金を稼ぎ、この暗い気持ちから早く脱出したかったのであります。しかし、卒業後即就職した会社もうまく行かず、ついに家出する始末で益々どん底へ落ち込みました。
著者/林田昭慶・石津祥介・
くろす としゆき・長谷川 元
発行所/婦人画報社
昭和55年5月1日発行
  1年後、兄の紹介でやっと再就職も決まり、それなりに自由にできる小遣いも手に入るようになり、自分自身が落ち着きを取り戻した時期でした。その頃、そごう百貨店のVAN売り場はミナミ界隈では当時トップクラスで、この時代は郊外でもVANショップが沢山ありました、私は週に2〜3度は立ち寄り買い物をし、満足していたものですが、自分自身の気持ちを伝える友達もなく、高校時代が最悪で誰一人も友人なし。荒んでいた時代でした。今一つしっくりせず空しく感じ始めていました。それでも心ブラ=ひっかけ橋を通って心斎橋、戎橋をぶらつくこと、をひたすら続け、彼女の一人でも見つかればなどと思ったが現実はそんなに甘くはなかったのであります。
ロゴ入りブルゾン
ツイードのジャケット
マドラスのレインコート

お気に入りの品々、当時はとても新鮮だった

  ここでN君と出会う!最悪の高校にもこんなオシャレナ男がいたのかと思うほどカッコよかった!この後、N君はメンズクラブという雑誌で「街のアイビーリーガー」に掲載されましたが…私は彼との出会いでまた一つ進歩したことがある。今までVANのものをただ身に着けさえすればお洒落ができているものだと信じていましたが、そうではなく全体をいかにバランスよく組み合わせるかという事です。
  一例をあげますと、コットンパンツにコードバンのウィング・チップの靴をあわせるなど、今、思い出すと恥ずかしい!カジュアルなパンツに重厚な靴!彼はまた歩く様まで自信にあふれていたような気がします。身長も175cmあり当時では高い方で、異性に対しても巧みで臆することもなく、特にアイビースーツの似合う男で私から見れば憧れでありました。そんなN君も30歳前後でアイビーから去って行くのであります…。
  彼とは約3〜4年の付き合いでしたが、JAZZ喫茶やカフェーなど粋な店を教えていただきました。私の買い物も彼の影響から、VANの製品からKENT部門(くろすとしゆき氏の作品で一段クラスが上級)へと変わって行ったのであります。
  買い物合戦が活発になったのもこの頃で、街に出ると手ぶらで帰ることは絶対ありませんでした。シャツなり、靴下、ネクタイなり何かを手にして二人で語り合いながら帰ったものでした(南海電車での二人の激論はおもしろかった)。

  もっとおもしろいエピソードは…私が気にいったスーツを彼は盛んに似合わないからやめたほうがいいと止めるんです。私のことを思ってアドバイスをしてくれているのだと初めは解釈してうれしくなりました。しかしこれが大きな罠だったのであります。なぜかわかりますか?マネをされたくないからですョ!彼はそれから1週間もすればそのスーツを着てましたから、残念…してやられた!このようにお互いライバルでした。私はその後、心ブラに努力するも、メンズ・クラブにはとうとう出ることができませんでした…。
  色々とありましたがそれはもう楽しい日々でした。通勤時に周りの連中のお洒落度をいつも気にしておりましたが、同世代に負けたと感じることはあまりなかったと思います?独りよがりかな?以前と違って、自信も付き明るくなった自分自身に喜びを感じていました。
  このKENT部門こそ今日に至るまで、このファッションを続けさせる起点になったと言っても過言ではありません。私は石津謙介氏とくろすとしゆき氏の信者になったのです。
リビングに飾っているVANとKENTの額、10万円でも売らない!

  第1回は、アイビー・ファッションに執着する第一歩までのエピソードを思い返して書きました。
VAN→KENT
次回の掲載を、お楽しみに。

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