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『唐九郎と永仁の壺』 | ||||
伊賀で、生前の加藤唐九郎と親交があったと言へば私の知る限りで二人いる。 今から二十数年前、当時緑ヶ丘(上野市)にあった友人の窯を手伝っていたら、万町(よろづまち)に住んでいる土屋の、小柄であるが眼光鋭い佐々木鐵也が覗きにきて次のような話しをした。 このまえ加藤唐九郎が 「伊賀の土を持ってきて欲しい。」ていうてきたさかひ軽トラに黄土や白蛙目(しろがいろめ)を積んで行ったんやして。守山の窯に着いて二、三袋おろしたときやった。唐九郎が 「こんな土ならこの辺にほかすほどあるワァ」と言ったので、ワシはカッとなって 「ゴミになるだけやったら持って帰る」といって袋を荷台に戻し、運転席に座ったら、唐九郎はあわてて軽トラの前へ廻り、両手を拡げて 「待ってくれ。悪かった。」と謝った。それで土の袋を全部おろして事務所に入ると大きなテーブルの向こうから唐九郎は一万円札をわしづかみにして 「持っていけ」と放り投げた。ワシは又、カッとなって 「伊賀の佐々木鐵也をなめたらあかんで」といって席を立ったら、唐九郎は 「待ってくれ。帰らんといてくれ。」と又、謝った。というような話だった。''死人に口なし''であるが、唐九郎には人をくったような言動をとる一面もあったのだろう。その後唐九郎は、亡くなる直前まで四回、土を求めて伊賀に来ている。何れも世話をしたのは佐々木鐵也であった。 もう一人は、忍町に住む作家の岸宏子である。昔、同じ町内だったので私の父の葬儀に参列してくれたことがある。 『唐九郎まんげ鏡』で岸宏子は次のように書いている。 夜、ぐっすり寝ていたら唐九郎から電話がかかってきて起こされる。 「何時だと思ってるんです」というと 「もの書きがいまごろ寝ていてどうするんだ。起きろ起きろ」 電話を布団の中に引き入れる。 「仕事なさってるんですか?」 「窯たいてる」というようなやりとりがあったあと、愛人が姿をみせなくなった訳が解ったという。 「彼女に男がいたんだわ。・・・どうもそいつのところへ行きよったらしい。」その彼女というのは女弟子で三十過ぎだという。 「いつからそういう関係になったんです?」 「もう、十年ほどになるかなァ・・・」十年・・・すると、女性は二十歳あまり。唐九郎は七十か、七十をすぎていたということになる。岸宏子は受話器をかかえたまましばらく言葉が出なかったという。 岸宏子が唐九郎と初めて会ったのは、NHKのラジオ番組で守山の翠松園に出向き、聞き手となって対談したときであった。このとき岸宏子は「永仁の壺事件」のことを質問しようとするがNHK名古屋支局のS氏が強く反対したという。''さわらぬ神にたたりなし''と思ったからだろう。 永仁の壺事件は、事件発覚から四十年以上経った今も謎の部分が多い。唐九郎は''永仁の壺''で世間を欺(あざむ)いて自作自演を演じた訳であるが、「自伝」でも都合の悪いところは書かなかったり創作したりしている。一方の小山冨士夫は自身の不明をいさぎよしとしなかったのか公には何も書きのこしていない。 私が参考にした数冊の本で知り得た限りでは、いわゆる''永仁の壺''は、一九三七年(昭和十二年)頃、唐九郎が岐阜の白山長滝神社に伝わる正和元年(鎌倉時代)銘の瓶子(へいし)の形だけでなく銘までも真似て作ったものである。窯から出したあと弗化水素の液を掛けて古色を付け、自宅の裏山に埋める。五年余り経ってから掘り出した唐九郎は、''壺''を知りあいの志段味村村長、長谷川佳隆に 「お宮から出たものだが、土から掘り出したことにしてくれ」と言って持ち込む。
唐九郎流の芝居を小山冨士夫は手記で、「昭和二一年、終戦の翌年、私は四月から十二月まで瀬戸古窯址群の再調査を行いました。ある日偶然、椿窯址で加藤唐九郎氏にあいましたので、松留窯址の案内を求めました。唐九郎氏に案内され、西北へ尾根づたいに約五、六百米ほど行ったところ、唐九郎氏は大体この附近だったと記憶するがと、谷に下り、丘の頂にはせ登り、窯跡をさがす様子が真剣で、まさかこれが虚構だとは思われませんでした。」と書き残している。 一九五四年(昭和二九年)になって、唐九郎編纂の『陶器辞典』が発行され''永仁の壺''は堂々と原色版に登場する。自作の瀬戸瓶子と柳文花瓶を鎌倉時代といつはり、写真まで載せているのは前代未聞のことであろう。以下原色版解説を招介すると、 鎌倉時代 瀬戸瓶子
素地は灰色緻密、釉は透明な黄朽葉色、初期灰釉に多い頽れがある。作りは紐作りで接ぎ合せ、轆轤の上で表面を滑かにしてある。瀬戸瓶子の代表的スタイルでたくましい力を抱蔵してゐる。胴には、奉施入白山妙理權現御寶前 尾州山田郡瀬戸御厨 水埜四郎政春 永仁二甲年十一月 日と彫銘がある。これは西歴一二九四年、鎌倉時代の末期で、蒙古の大軍が我國に襲来した弘安役の直後にあたり、陶藝が衰微の極に達した此の時期の作としては非常に珍しい。また瀬戸の陶器にある年銘では、現在知られてゐる中の最古のものである。(高八寸餘)<深田雄一郎氏蔵> 古瀬戸柳文花瓶 鎌倉時代の瀬戸窯は数々の素晴しい作品を遺してゐるが、中でも松留窯の作は意匠技巧に於て最高の発達を遂げ、當代瀬戸窯の黄金時代をなすかの観がある。この花瓶も松留窯遺品中の代表作で、飴釉の頽れも美しく、成形の妙に陶技の冴えを偲ばせる。—後略— 美辞麗句で自画自賛している文章力は天才的である。唐九郎はさらにこの年つじつま合せの為、''松留窯''(唐九郎窯)破片を椿窯址へばらまいている。 唐九郎数々の布石が功を奏してか、一九五九年(昭和三四年)小山冨士夫の提案により文化財専門審議会で''永仁の壺''の重要文化財指定がきまってしまった。''永仁の壺''が重文に指定されると待っていたかのように偽作説が流れはじめる。古瀬戸の作品にも疑がわしいものがいくつも出てきた。これらの疑問を解決しようと、その年の十一月「火と土の芸術展」が名古屋の丸栄百貨店で催された。古瀬戸の名品が日本中から集められ、台の上に並べられた。本多静雄は書く。「並べ終わった途端、台上の偽物と本物がだれの目にも一目瞭然とわかった。みんなの目が「永仁の壺は駄目だ」ということを語っていた。本当に不思議な瞬間だった。・・・私達は本物と偽物とを幾つも並べてみることのいかに大切であるかをいやというほど知らされた。」 一九六〇年(昭和三十五年)加藤嶺男(唐九郎の長男)と唐九郎は相次いで「永仁のツボは私がつくった」と告白する。 一九六一年(昭和三十六年)四月郷土史家滝本知二らの運動により、''永仁の壺''は他の二点とともに重文指定を解除される。 そして小山冨士夫はその三ヶ月後に責任をとって文部技官を辞職した。''永仁の壺''は小山冨士夫の人生を狂わせたが、唐九郎も又深いキズを負った。その後の陶芸展では唐九郎作品がはずされていることが多かった。唐九郎の生活困窮の時代に食器などはいくら作っても買いたたかれたが''古瀬戸''写しなら高値で売れたことも贋作に走らせた理由であったと思われる。桃山陶の再現、陶磁、古窯址の研究、数多くの著作等、誰もが認める業績を唐九郎は残している。 贋作さえつくらなければ当然唐九郎は数々の栄誉(文化功労者、芸術院会員、その他)に浴していたことと思はれる。 新聞が連日のように永仁の壺事件をとりあげていた頃、細川護貞が聞いたという言葉を加藤唐九郎は、遥かなる空の彼方で今日も轆轤を廻しながらつぶやいていることだろう。 「こんなものはいくらでも出来ら!」 |
参考
次回の掲載、お楽しみに。 |
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