暮らしの読み物

部会や倶楽部の会員の方々のご協力により寄稿されました。
論文あり、旅あり、食あり、涙あり…と、示唆とウイットに富んだ内容をお愉しみください。


地下足袋日記   1   2   3   4   イギリス編
「遺伝子の命ずるままに 住吉高灯篭建立の奨め」   1  (PDF形式)
味読「やさしさを生きる…」   1   2   3   4   5
ロハスライフ   1
あかりと遊ぶ   1   2   3
アイビー文化を楽しむ   1   2   3   4   5
やきもの小話   1   2   3   4   5   6
35日間の熟年夫婦の旅日記   1-1   1-2   2   3   4   5   6


ほんとうの加藤唐九郎 ——『当世畸人伝』を読みとく——

 一月、なんば高島屋で「荒川豊蔵と加藤唐九郎」展をみた。豊蔵の志野の茶碗はおおむねのびやかで“用と美”を兼ね備へているように思われた。一方、唐九郎の茶碗で「氷柱」と「紫匂」は初めて眼にするものであった。「鬼ヶ島」や「残照」は出ていない。上記二つの茶碗は世に喧伝されてきた“名品”であるがなぜか感動を呼び起されるまでには到らない。疲れていたのかも知れない。多くの茶碗は高台脇が下に着きそうなものや、わざと変形させているように見うけられた。もう一度よくみようと二順目に歩をすすめ、改めて唐九郎の作品をながめているうちふと疑問がわいてきた。彼は果たして“巨匠”と呼ばれるに相応(ふさわ)しい腕と人格をもつ陶芸家であったのか、といふことである。そんなとき古書店で出会ったのが白崎秀雄著『当世畸人伝』である。加藤唐九郎は選ばれた七人の最後に登場してくる。歯に衣きせないその文章は十分な諷刺に満ち、唐九郎の畸人ぶりを大胆にあぶり出す。
以下その要旨を仮りに、四つにわけて紹介すると・・・。
神社の由来を述べた建札

〈黄瀬戸事件〉
 やきものの町瀬戸は、ふってわいたような“陶祖藤四郎抹殺論”で騒然としていた。『黄瀬戸』の著者加藤唐九郎に対する反撥が日に日にたかまっていたからである。昭和八年四月二日付名古屋日日新聞には
 陶都瀬戸市の
 不敬漢を葬れ
 陶彦社の神域深く
 煙は高し尾張の小江戸
という見出しをつけ
「記者は中正公平なる立場から」
「四万瀬戸市民と共に陶祖敬慕の念より著者に対し筆誅を加へる者である」いま読むといかにも時代がかっている感がする。
 この記事の前後から唐九郎の家には脅迫状が頻々(ひんぴん)と舞ひ込み、石がなげつけられるようになった。石の一つは、瀬戸窯業学校へ入ったばかりの長男嶺男の肩にあたり、嶺男は発熱して寝込む。又、一夜数人の暴漢が押しかけてきて
「やい唐九、出て来う」
「庄九郎のにせ唐九郎め」
などとわめきながら戸を閉した家の板張りのあちらこちらを棒で叩きまわる。騒音にたまりかね、制止にとび出した陶房の若者の一人は、たちまちなぐり倒された。
 瀬戸には江戸中期以降から「陶祖加藤四郎・・・左衛門景正」の前後を略した藤四郎伝説が定着している。瀬戸の陶器は彼が道元禅師にしたがって宋に渡り、建窯の陶法を瀬戸にもたらしたことになっている。
 唐九郎の書いた『黄瀬戸』は真っ向から陶祖藤四郎伝説と衝突するものであった。
その核心の部分は ——— 藤四郎を調べれば調べる程、終ひには何処にもなくなってしまって架空の人物のように思えてくる。美濃の山中に現れる野武士の様でもあり、山窩のようでもあった。瀬戸の藤四郎は、或は此の山窩の親分であったかも知れない。 ———
 当時の瀬戸の人達の一部には、唐九郎のことを小学校もろくに出たかどうかわからぬ陶工の分際で、学者のまねをする妙な奴との反感も濃かった。
「不敬漢膺徴」「古今無類の謝罪祭」なる市民大会を四月十六日に深川神社境内において決行すると新聞は伝える。
 事実市民大会は行われ、集められた「黄瀬戸」は社殿の前でお祓いをしたうえ焼却処分に付された。
 そのときためらう唐九郎が弟子に促されて市民大会の会場へ乗り込み釈明演説を、ヤジと怒号のなかで行う。
——— 根拠のない伝説を崇めることは決して瀬戸の陶業を尊重する所以ではない。むしろ学問的に瀬戸焼の沿革を究めることにこそ不可欠の意義があると確信する。 ——— 唐九郎は弟子の走り書きのメモからそういう趣旨のことを言っているうちに昂奮してきて
「わしは暴力団の圧力などに屈しやせん!」
と絶叫し、演壇からたちまち引きずりおろされ、突きとばされ蹴られ、神社の石段をまろびころびつ逃げかえる。
 その後、唐九郎はこの事件によって瀬戸を追われることになる。暴力団に脅迫され、誓約を強いられたと推測されている。一つには二度と陶祖否定はしないこと。いま一つ瀬戸には住まないということであった。

〈姓名を変える〉
 黄瀬戸事件から二十年経った昭和二十八年秋、唐九郎自らかいた『加藤唐九郎略歴』に明治三十一年一月七日、瀬戸市窯神町九十二、加藤桑次郎の長男に生る。少年より父祖伝来の陶業に就く。と書く。
“永仁の壺”告発グループの一人瀧本知二は戸籍謄本をかかげ
「これがまっかないつわりで、本籍は瀬戸ではなく東春日井郡水野村、加納桑次郎の二男に生まれた加納庄九郎である」「庄九郎は父祖伝来の陶業をついだものではなく、先祖代々の小作百姓であったことが明らかになった。」と唐九郎の出生の事実を明らかにする。唐九郎は昭和二年四月から同十二月にかけて意識的に姓名を変えていく。我が国では姓をかえるのは比較的たやすい。他家へ養子に入るか、結婚して相手の姓を名のることもできる。
しかし名を変えることは容易ではない。
 加納庄九郎は、戸籍法上の規定に従いつつ、昭和二年加藤姓に入籍して加藤庄九郎となったあと分家して瀬戸町に移住する。当時瀬戸町には既に二人の加藤庄九郎が住んでいた。三人の同姓同名があるため社会生活上甚だしい不都合が生ずる。よって改名を許可願いたいと申請して許可された名が“唐九郎”であった。庄九郎は、唐九郎になるため内務省の認可規準を充分に研究し、許可の瀬踏みも町長への根回しもした上で、ことさら加藤庄九郎が二人いる瀬戸町へ転籍したのである。
 ところで唐九郎は加納庄九郎から加藤唐九郎になることになぜ執着したのか。また氏名の変更は彼に何をもたらしたか、と著者は問いかける。
「陶祖藤四郎の直系らしく見せかけ、瀬戸窯中興の名工唐九郎の名を失敬したのである」と瀧本知二はタネ明かしをする。陶祖藤四郎からかぞえて四世藤四郎政連の別名が唐九郎なのだという。加藤姓がとくに尊ばれる理由はないが、陶祖四世の名をそのままそっくり盗(と)るとなれば加藤姓でなくてはならなかった。
 唐九郎は、姓名を加納庄九郎から加藤唐九郎に変えたことで決定的に多くのものを得た。所以(ゆえん)を知らない者には陶祖の末胤もしくは名家の出らしいと響く語感がある。唐の一字に強いアクセントがあり、「藤唐」と押韻のように音が重なって、一度見聞きしたら忘れ難い印象を与える。加えて陶祖藤四郎四世で、瀬戸中興の祖の唐九郎の名を知る者は稀(まれ)である。加藤唐九郎の名はもともと彼だけのもののように世間には行きわたった。多くの商品はもちろん映画や本でもタイトル一つで大いに売れたり売れなかったりするのは常識である。ネーミングの才ある唐九郎は早くからそのことを敏感に感じていたのである。

志野茶碗「紫匂ひ」
〈世に名を売る〉
 唐九郎は自らの出生の宿命から脱出したい衝動、熱望にかられていた。そのため若くから世に名を売ることに執心する。
 唐九郎は昭和十年代の食器制作の間に、十何代というような家柄や東京美術学校卒業という学歴の者に引きかえ、名声のない陶工の宿命を身に沁みて感じ、心はさまざまにうっ屈していく。そのことが後の噦永仁の壺器事件と無関係ではないであろう。
 唐九郎は、著名な文化人と対談したりするとき相手がやきものを本当にわかるなどとは無論思っていない。彼からみればそういう人たちのやきもの談義などは幼稚でいい気なものでしかないが、彼は如才なく調子をあわせて大いに語る。もっぱら相手の著名度を利用して自らの名を高めるためである。
 唐九郎は又、さまざまの恐らく多くを代筆者のかいたと覚しい「著書」なども出版する。彼は著名な作家や評論家に、神秘めかした自分や自分の作品について書かせることにも長けていた。一つの例として、当時盛名をはせていた立原正秋に窯から出たばかりの茶碗をみせ、銘をつけてくれるよう頼む。立原正秋は表が濃い紫で中が龍胆(りんどう)の色目からおもいついて「紫匂ひ」といういかにも詩的な銘をつける。それは対談となって雑誌に載り、やがて『紫匂ひ』というタイトルの本にもなる。
 唐九郎はある時期に職人芸として、つまり写しとしては精妙な陶器をつくったが、魯山人ほどの芸術家としての天分はなかった。白州正子との対談中に北大路魯山人の作品を評して、「年増芸者みたいなところがある」などと発言する。白州正子も相槌を打つ。この対談ものちに『やきもの談義』というほとんど内容にとぼしい本になる。唐九郎は元来魯山人の作品には心中畏(おそ)れを懐いていたし、いかにも芸術家らしい言行を倣おうとしていた。それはパーティーの席上猥談を始めるとか展覧会の前日になって中止を申し入れるという程度で、効果をはかって奇をてらっていたにすぎなかった。
 幸いなことにマスコミは、例えば上記の白州正子も含めてそういうことも唐九郎が自ら称する「野人らしさ」と受けとめ、彼の声望を高めるのに役立った。
 かくして唐九郎は、名声並びなき陶芸界の“巨匠”となり、魯山人を嘲(あざけ)るに至ったのである。

〈翠松園の土地〉
 唐九郎はのちのち自らの住所を守山区小幡翠松園と呼ぶようになったが、正しくは「名古屋市守山区小幡字北山」である。もともと一帯が松林であったところから唐九郎が勝手につけた名称であるのがいつのまにかもとからその名があったように思われるに到った。
 唐九郎宅の土地は、地目が山林であって正確な実測面積は登記されてなく、千五百坪という人もあり、又三千坪という人もいる。
「川喜多久太夫さんから分捕ったもんです」と瀬戸の唐九郎とつきあいのあった陶芸家はいう。川喜多久太夫は「半泥子」と号し、伊勢の旧家の富豪で、邸内に登り窯を築いて作陶に耽(ふけ)り、書画や茶湯もよくした。「分捕り」説陶芸家のいうところによれば、半泥子はやきものや、窯について唐九郎にきくうち、小幡の松林の土地を買って、窯と陶房をつくろうということになった。計画は実現し、唐九郎の家も建てられた。
 半泥子は、全てのお金を出したことから小幡の土地や窯、建物すべて自分の所有と信じ、使用権や占有権について唐九郎となんの契約も交わしていなかった。半泥子にすれば、ついでにここの庭番でもさせておこうという軽い気持ちだったのかも知れない。
 両者の間に後日紛争が生じる。半泥子は怒って唐九郎に退居をもとめるが陶九郎が頑として応じないのでやむなく法的措置をとる。唐九郎は築窯の材料費や手間代、作業場、家屋の建築費等についての自分宛の領収証を裁判所に提出した。唐九郎は居住権や占有権を主張してゆづらず、半泥子はついに訴訟をとり下げる。
 半泥子は、ゆくゆくは清元の師匠である中西千賀を住まわせるつもりであった。しかし唐九郎はここに住みこんで、動こうとしなかった。
半泥子は『泥仏堂日録』のなかで、「加藤唐九郎氏不都合に付き交を絶つ」と簡潔に述べている。「分捕り」説陶芸家の言とも符合する。
 唐九郎は、用意周到に考えをめぐらし、遂に生涯住むことになる土地と家を得ることに成功する。
 そして彼の後半生、ときに田舎芝居をうったり、ときには世間の規範を越えた奔放さで自作自演のドラマを演じていく。
 唐九郎に何度か会い、彼に関する資料を精査し、陶房も一度ならず訪れ、唐九郎という男の真相に迫り得たと思われる白崎秀雄をして『当世畸人伝』のおわりでこう言わしめている。
「わたしには、彼の正体がおよそ何物であったのか、到底一言や二言ではいひ難いのである。」と。

参考
「当世畸人伝」 白崎秀雄著 新潮社
「おれはろくろのまわるまま」 評伝・川喜田半泥子 千早耿一郎著 日本経済新聞社

次回の掲載、お楽しみに。

ページTOPへ

E-Mail:ask@kurashikata.gr.jp
フリーダイヤル:0120-11-6584いい 老後やし! FAX:06-6356-7225
Copyright(C) 暮らし方研究会.AllRightsReserved.