暮らしの読み物

部会や倶楽部の会員の方々のご協力により寄稿されました。
論文あり、旅あり、食あり、涙あり…と、示唆とウイットに富んだ内容をお愉しみください。


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35日間の熟年夫婦の旅日記   1-1   1-2   2   3   4   5   6


『楯岡の窯ぐれ女』

 大阪のG画廊で、素人っぽさの残るうづくまりや小皿などの信楽を何度か眼にしていたので、窯のある場所を一度見たいと思っていた。偶然そこは忍びの里でもあった。
大井城跡 楯岡の道順もこのあたりに
住んでいたか
 その村を楯岡(たておか)といふ。伊賀東北部柘植(つげ)川右岸に位置し、北は水口丘陵に続き、丘陵の南に集落が点在している。村の中央部には大井城跡があり、土塁と空掘が残る。
大井氏は天正九年、織田信長の武将滝川一益と丹波長秀の軍をむかえうち塁外の野に討死にしたと伝へられる。
 しかし楯岡は、戦国期に活躍した伊賀崎道順こと楯岡の道順が住んでいたことで知られる。
 忍術の秘伝書「萬川集海」の忍問答に「問ヒテ日ク、拾一人の陰人ノ上手ノ名ヲ聴カン、答エテ日ク」とその名をあげている。「野村ノ孫太夫、新堂ノ小太郎、楯岡ノ道順・・・」と続く十一人のなかでも楯岡の道順は傑出していて道順から多くの忍びの流儀が出たと記されている。例として山城における攻防戦がとりあげられる。道順は伊賀甲賀の忍者四十八人を引きいて百々氏が立籠もる近江佐和山城に迫り、下忍をひそかに忍び入らせ、城内に火を放たせると同時に攻めかかりたちまちのうちに落城させたといふ。
 伊賀の地図を拡げると、楯岡から半径五粁内に住んでいた忍者は、前述野村の孫太夫、新堂の小太郎、さらに下柘植の木猿、同小猿、音羽の城戸、山田の八右衛門、湯舟の藤林長門などで、半径十粁になると上野の左、高山の太郎四郎、同太郎左右門、喰代(ほおじろ)の百地丹波がいる。甲賀の竜法師もこの範囲である。このようにみると楯岡は忍者が密度こく居住していた地域の中心地、即ち忍びの銀座であったと言へるのである。「萬川集海」が書かれたのは江戸時代に入って七十年も経ってからであり、「陰人ノ上手十一人」は生存していることはなく伝説上の名人として記憶されていたと思はれる。

 楯岡の道順からときは流れて、平成十四年、大阪から一人の女性がこの地にやってきて村外れに穴窯を築く。Y嬢(以下こう呼ぶ)は、京都のS美術短大を卒業して中学の美術の講師を勤める傍ら信楽へ通ってA氏の窯を手伝い、成形と窯焚の技を習得する。A氏は年一回、大阪での個展を恒例にしていたが、ほどなくY嬢も同じ画廊で個展を開くようになる。ところが3・4年前から、何故かY嬢はA氏と訣別する。A氏のスポンサーもY嬢に移り、A氏にとって”昨日の友は今日の敵”となってしまった。Y嬢は、信楽では都合が悪いと思ったのか伊賀に適地を求める。と同時に中学の講師も辞め、自ら退路を断つ。しかし、女の身で穴窯をやっていくのは生やさしい事ではない。薪を割るのも、土を運ぶのも、窯を焚くのも皆(みんな)力仕事である。女性にはこのうえなく不利であるが、彼女はそれを逆手にとり、売りに変えている。Y嬢の売りとは、穴窯の女性陶芸家としての稀少価値と生来の美貌であろう。個展のときはやや憂いを帯びた面(おもて)に薄く化粧して淑(しと)やかな女性を演じる。その変わり身は現代の忍者といへなくもない。
吹雪く油日岳
 御斎峠から直線距離で十三粁の楯岡を訪ねたのは、春にはまだ遠い冬の日の午後のことであった。
南には霊山(765.8米)が暗くよこたはり、東の油日岳(694米)には絶へず雪雲がかかっていた。
 すぐにわかると思った窯はなかなか見つからなかった。諦めかけたとき、田園風景の中に一瞬人工の物が目に止まった。そこは杉の林に覆はれていて工房というよりは忍術砦のような場所であった。
物音はしないが黒のワンボックスカーが止めてあるので誰かいるはずである。声をかけると、しばらくして小屋の中から眼鏡の男が出てきた。知らない顔だと思ったのか「Yさんならいますよ」といって引っこんだ。露払役の男をみたのは白昼夢だったのかも知れない。Y嬢は心なしか腫れぼったい目であらわれた。男物の作業着姿である。めったに人は来ないのか訝(いぶか)しそうにこちらを見ていたがハッと気がついて
「ああァ」といった。窯の周りは杉林であるから日当りは悪そうだ。私は外交辞令のつもりで、「良いところですね」といった。Y嬢は涼しい顔で答へる。「はい。ワタシもそう思います」私は思わず“アッ”といってしまった。窯の上屋は徒然草の”家の作りやうは夏をむねとすべし”如くである。
春になって窯を焚くのかと思って訊くと、Y嬢は事もなげに「来週、窯を焚きます」と宜(のたま)ふ。私は又“アッ”といった。日が暮れると零下になる吹きさらしの窯場で、三昼夜焚き続けるのは無謀にも思われた。
招かれざる客に長居は無用である。杉林から出ようとしたときであった。追いすがるようなY嬢の声がした。
「A先生にはここの場所を言わないで下さい」その声の響きには、過去と一線を画し、この地で焚きつづけて行こうとする強い意志が感じられた。
瀬戸ではやきものに従事するものを窯ぐれと呼ぶが、女なら女窯ぐれであろう。もはやY嬢は、久ノ一ならぬ楯岡の”窯ぐれ女”であった。
振り返ると、杉林のはるかうしろに雪雲が去って夕陽にかがやく油日岳の山容が認められた。


参考
 角川日本地名大辞典24 三重県 角川書店
 伊賀町史 「忍術と伊賀町」 沢村保昌著

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