暮らしの読み物

部会や倶楽部の会員の方々のご協力により寄稿されました。
論文あり、旅あり、食あり、涙あり…と、示唆とウイットに富んだ内容をお愉しみください。


地下足袋日記   1   2   3   4   イギリス編
「遺伝子の命ずるままに 住吉高灯篭建立の奨め」   1  (PDF形式)
味読「やさしさを生きる…」   1   2   3   4   5
ロハスライフ   1
あかりと遊ぶ   1   2   3
アイビー文化を楽しむ   1   2   3   4   5
やきもの小話   1   2   3   4   5   6
35日間の熟年夫婦の旅日記   1-1   1-2   2   3   4   5   6


コルドバ→グラナダ→アルメリア→マラガ→ミハス→ロンダ
 トレドを朝七時三十分発、マドリードへの直行通勤列車へ乗る。座席は清潔で鮮やかなブルー。とても立派だ。吊り革を持って立つほど込んでもいない。トレドとマドリード間は自家用車での通勤圏内かもしれない。
 一時間でマドリード、アトーチャ駅着。直ちにホームを移動し、九時発のセビリヤ行き特急A.V.Eに乗ることにした。特急料金一人1200円追加はユーロパス使用の我々にとっては実に痛いが、日本の新幹線の乗り心地を比較するのも面白いと思って乗車。「コルドバ」新駅へは一時間半で着いた。これから十日間ばかりはスペイン南部、アンダルシアめぐりとなる。誰もが憧れる地方。八世紀初頭から八〇〇年間続いたアラブの勢力によって花開いたこの地で、どれだけの文化遺産に触れることが出来るか楽しみである。
 当時、ヨーロッパ最大の都市と言われたコルドバ、そのシンボル的建造物メスキータ(モスク)を尋ねる機会をつかむことができたのだ。そうとなればホテルも当然ながら門前に決まりとなる。駅からこのメスキータへの道のりは約一キロ。かんかん照りの日中、バックパックの重みがどっしりと堪えたが、逸る気持ちがメスキータ見学へと向かわせた。


オレンジが植え込まれているパティオと
メスキータ
 コルドバの特長であるパティオ(中庭)は、ここメスキータには最古のイスラム庭園と言われる「オレンジのパティオ」がある。免罪の門から入り、この中庭を通ってシュロの門から内部へ入るや、この光景には一生忘れない程の強烈な印象を与えられた。
広さ175M×135Mの大モスク内は、円柱の森と表現するにふさわしく赤レンガと白い切り石で作られた馬蹄型のアーチの柱が八五四本立っているといわれている。高い窓から入る自然の明かりだけのうす暗い空間は、知らず知らずのうちに幽玄の世界へと引きずりこまれそうな不思議さをかもし出している。
 約二〇〇年間にわたって造り加えられたこのモスクは当時、二万五千人の信者を収容できたとも言われ、キリスト教やイスラム教の勢力が交互に優勢になるたびに内部が改造され、その名残りがゴシック、ロマネスク、バロック様式と混在し、様式のパーツをみるようだ。なにわともあれイスラムの高度な文明には脱帽と言えよう。
 主人の写真撮影のテンポもいよいよ速まり、メスキータの内部をはじめ、建造物の内外壁を含めたら十数本のフィルムを使ったようだ。被写体に人影が入るのを好まず、気に適うまでシャッターチャンスを待つ。そして同じ個所を条件をかえて何度も写す。プロ並にバチバチ写すのもいいけど、家計を預かる私としては、プリント代が頭をよぎる。同じ写すならもっと町なかの庶民の暮らしが伝わってくるようなところを写してよ、と、注文したくなる。


メスキータ内
円柱の森を思わせるアーチ型の柱


精緻な細工が素晴らしい外壁

メスキータの外観の一部

 今日はグラナダへの移動日。コルドバ駅へ急ぐ。
 どのホームにも列車が入っていない。切符売り場も窓が閉まったまま。何か事件でも生じたのかと思うほど、制服を着た公安警察の人達がウロウロしている。どうもストライキ中らしい。どんな状況になっているのか成り行きがわからないので、行き先のことを考えて、しばらく心配して過ごした。そのうちにマドリード発「マラガ」行きの急行TALGO200だけは動いているというのでラッキー。スト中なので急行券も手に入らないまま乗車した。車内は、がらんとして数人乗っているだけ。売り子さんがワゴンを押してきたのと、乗務員が通路を往き来していたが、チケットの点検もしないままグラナダ行きの乗換駅「ボバディラ」で下車する。
 ここからグラナダ行きは一日一本、午後二時四〇分しかない。急行で乗ってきたものの待ち時間が約四時間。ストでなければ普通列車に乗って車窓からの眺めを楽しめたのにと思う反面、急行券なしでここまでこられたことにほくそ笑んだり。まあやむをえない行動だろう。


乗り継ぎ駅ボバディラ駅内
柄タイルの腰壁が面白い
 「グラナダ」へは、コルドバやセビリヤ、マラガの都市からはバス路線が主流だが、ユーレルパスではこの「ボバディラ」での乗換えでしか行き着けないのだから仕方がない。小さな町の小さな駅。待合室も質素で、周囲にぐるりと長いベンチがあるだけ。日本のようにキオスクなどない。アラブ人の数家族が荷物を一杯携えて座っている。東洋人の我々に視線が向けられているのがわかる。
 見知らぬ田舎町に踏み入る絶好のチャンスとばかりに外へ出た。つち道で少々埃っぽいが、雑貨屋、食料品店、町役場や銀行、郵便局もある。
 主人の髭剃りクリームや食材を買い、両替も済ませた。路地裏へ足を運ぶと、厚い白壁と赤い円瓦屋根の長屋が目に入る。入口のドアーや窓枠はブルーで、ここの風景にはにくいほどマッチしているから不思議だ。
 歩みを進めると今度は、家庭の主婦と思われる人が、バケツに溶かした白の漆喰液にモップをつけ、壁の塗装をしている光景が目に入った。真昼間の太陽が真白く塗られていく厚壁にまぶしく映えて美しい。壁塗りの仕事は女性の仕事らしい。
十分も歩けば見渡す限りの不毛の台地が広がる。遠くに、二台連なった大型観光バスがグラナダ方面へ走っているのが小さく見えた。


静かなボバディラの町(銀行と教会)


不毛の台地が続くグラナダ線の車窓より
 駅前のカフェテリアでコーヒーを飲みながら持参のフランスパンをかじり、友人への絵葉書を数枚書く。その足で郵便局へ行き、切手を買い投函する。が、果たしてこんな田舎町から出した便りが日本へいつ届くのか、それとも届かずに消え失せてしまわないのか心配だ。以前、ギリシアやトルコあたりから、ホテルのフロントで切手代を支払って出してもらったものが届かなかったこともあり、それ以来、自分で切手を貼り投函することにしている。疑えば失礼になるかも知れないが、代金をフトコロに入れて、せっかく書いた葉書きは捨てられる破目になったのかと思ってしまう。長い待機時間が漸く終り、セビリヤ発、グラナダ行きのローカル線二両編成のディゼルカーに乗る。車窓からの眺めは相変わらずオリーブ畑と牧草地、不毛の地が続くが、かなり高地へさしかかっているのか、車輪の響きが身体に伝わってくる。いよいよシェラネバダ山脈に近づいているのだろうか。遠くまた近くに白壁と赤い屋根の集落が点在し、いかにもアンダルシア地方の気候と合まって絵になる風景が次々と展開される。ハーブのフェンネルが小木にまで成長したものが、軌道沿に生えているのが手に取るように見える。ここではフェンネルもカモミールもまさに雑草で、好き放題に繁茂しているようだ。


グラナダ地方のオリーブ畑は、山裾までびっしり植林されている(車窓より)

 約二時間の乗車で憧れた「グラナダ」へ着く。夕方五時前は、ここ南国では十分に行動出来る。この地のメインとなるアルハンブラ宮殿により近い場所でホテル探しをすべく、カテドラルやイサベル女帝の眠る王宮礼拝堂、みやげ物屋が立ち並ぶアルカイセリーアなどが集中する町中を通り抜け、丘の上に宮殿が望めるヌエバ広場まで来る。もっと近場に求めようと思えば、ゴメレス坂を登って行く途中にあるバス・トイレ共同のホテルが安いとわかっているが、すでにバックパックの重さと駅より歩行三十分の疲れでは、坂を登る気力がない。今日は当地への移動日と自分に言い聞かせて、明日への体力を貯めようとここヌエバ広場でのホテルを決めた。幸い、色々な店も集まっており、裏手の通りにはレストランや喫茶店など夜遅くまで開いており、危険を感じずにぶらつくことが出来て満足だった。


アルハンブラ宮殿の庭
糸杉が刈り込まれた緑一色の生垣と池
 コルドバの「メスキータ」も然る事ながら、アンダルシアの「アルハンブラ宮殿」は、スペインの目玉観光地である。誰しも一度は耳にしたことがあるギター曲「アルハンブラの思い出」(タレルが作曲)が頭をよぎる。加えて、どの写真集をみても宮殿内の数々の庭園や、建造物の壁や天井の彫刻美には心はずまない者はいないだろう。今、まさにこの地に足を踏み入れることが出来たことに感謝する。朝九時、入園とは言えすでに横五列の長蛇の列には、人気度の高い所とは知りつつも呆れ返ってしまった。各国から訪れるツアー客も昨日の内に町中でホテルをとり、観光バスで次から次へと入ってくるのだから、チケット売り場や行列の様子も半端なものではない。ツアー客グループに負けるまいと力が入り、足早に列に並ぶ。まだ太陽も低く、うっそうと茂る木々でおおわれた丘陵地のせいか肌寒さを感じながら開門を待った。
 見所の多い広い宮殿敷地内は、アルカサバ、アルカサール、カルロス五世宮殿、ヘネラリーフェの四つの部分に分けられていて順路が示されている。今日一日はここで過ごす予定なので、のんびりと狭い石段を登りベラの塔へ向かった。途中で、ベレー帽を被り杖をついた老人に「コンニチワ」と親しげに呼びかけられた。すわ一大事、もしかしてこの手法が危険な目に合う仕掛けかも知れないと身構えたものの、片言の日本語で、昔、フラメンコの興行で踊り子さんをひきつれて、北海道から九州まで各都市をまわった思い出話をされた。おまけに、今の時間ならこの場所へ行った方がよいとアドバイスまでして下さるという親切さに、先ほど疑って身構えた気持ちから感謝の気持ちへと変わった。
 ベラの塔からは、南方には一三〇〇メートル級のシェラネバダ山脈が連なり、すぐ北側は眼下にグラナダの下町と、城塞都市アルバイシンの丘が手に取るように一望出来る。
イスラム王国二六〇年にわたって作られた楽園「アルハンブラ宮殿」を文章で紹介する力は到底持ち合わせていないが、素人の我々でさえも、イスラム建築の神髄はここにしかないことだけは力調出来そうだ。
 宮殿内の各々の部屋壁は、漆喰で、花模様とコーランの教えが組み込まれた彫刻でうめ尽くされ、緑の木々を通して入る光がこの壁に反映して、幻想的なアラブの雰囲気を出していて感動の連続だった。
 糸杉が上手にカットされて美しい花々を取り囲んでいる庭。ネバダ山脈から流れ出る水を取り込んだ「アラヤネスの中庭」、一二四本もの大理石の柱に支えられた回廊の「ライオンの中庭」、数ある庭を散策していると、栄華を誇った王達の良き時代の営みが連想できそうだ。
 将来、建築や絵画、デザイン関係の仕事に携わりたい人にはぜひ若いときにここを訪れて欲しいと思った。
さて、行きはホテル前のヌエバ広場からゴメレス坂をマイクロバスで登ってきたが、帰りはゆっくりと石畳の坂道を下り、その足でベラの塔から眺めたアルバイシンの丘へ登ることにした。この丘からの宮殿の眺望は、シェラネバダ山脈を背景に素晴らしい絵になるところだと評されていたし、特に夕方からライトアップされるアルハンブラ宮殿は最高らしい。赤い屋根と白壁の家がそっくり丘をおおっているようなこの丘に向かって、疲れはしているもののギンギラ目を輝かして迷路のような急傾斜の石畳を登って行き、お目当てのサン・ニコラス広場までやってきた。さすがにここからのロケーションは最高!ところがすでにたくさんの人が夕景を見る為に集まってきているし、地元アラブ人の出店も2・3ヶ所ありにぎわいを呈していた。民族楽器を商っていたアラブの老婦人が、カスタネットを打ち鳴らし哀調を帯びた調を口ずさんでいるのを聞いていると、若き日、きっとタブラオなどで歌い踊った人なのだろうか。歴史にきざまれた魂が宿るこの丘でひと時でも過ごせたことに感謝した。
 城塞都市としての機能を持つ町並だった為、迷路のような道は当然としても、その狭さはひどい。小窓のついた白壁の家が両脇から迫ってきているような感覚におちいるような、そんな帰りの下り坂道を通って帰路についた。そこここにたむろしている馴染みが薄いアラブ人の風体に違和感を覚え恐れをなしながら走り下る様を、今から思うと人間皆同じと頭でわかっていても相容れない感情が残っている自分がなさけないと、反省すること頻りだ。
 グラナダでの二連泊は、イスラムの長い歴史と建物の町に目を奪われた思い出深い土地となった。
 グラナダを離れる日、日曜とあって人の移動も少ない。グラナダ駅出発のセビリヤ行きも反対のアルメリア行きも、予定時刻になっていてもいっこうに通過した気配がない。手持ちのトーマスクックの時刻表もあてにならない時がある。色んな理由で運休したり、その地方によって運用の違いは考慮していないと心配の種になってしまう。主人はすべて私の責任にしてしまうこともある。時刻表の表示の読み方や説明されていることの理解が足りないのか。自分の能力のなさは自分がよくわかっているから苦にもならない。個人旅行をしている人々、それぞれが少々の不安を持ちつつ、予定通りに進まない不意の待ち時間を、読書したり、手紙を書いたりして騒ぎたてることもなく静かに過ごしているのかも知れない。


王の夏の別荘とヘネラリフェ庭園


王の夏の別荘とヘネラリフェ庭園


カルロス五世殿(ルネッサンス式の宮殿)
四角い建物の真中に回廊を配した円形の中庭がある


ベラの塔から望む城塞都市アルバイシン地区とサクロモンテの丘


コマレスの塔とアラネヤス(天人花)の庭


アーチ型回廊の上部
細かいアラベスク模様の彫刻がほどこされている


数ある部屋は漆喰壁で花模様やコーランの教えが彫刻され、絵柄タイルの腰壁になっている

「ライオンの中庭」と124本の大理石柱に支えられた回廊


アルバイシンの丘
サン・ニコラス広場より、手前アルハンブラ宮殿、遠くネバダ山脈がかすんでみえる
 今日は、アンダルシア地方の東南、汽車の線路が終着になっている端っこ、アルメリアへの旅だ。「アルメリア」といえば、園芸用の可愛らしいピンクの球状の花をつけた植物を連想し、どんなにかエキゾチックなところだろうと心浮き浮きの移動だ。
グラナダ駅を出れば、右車窓よりシェラネバダ山脈の残雪を、左車窓からは、まるで赤茶けた台地に自然の彫刻がほどこされたキャニオンやメサが、まるで月面を思わせるような連なりが広がっている。
 私達は、アメリカ大陸の大自然の中でキャニオンの深さや、アリゾナ、ネバダ砂漠の広大さ、メサやビュートの異様さを見てきているので、この光景にはさほど感動はないものの、景勝地としておすすめ出来ること請け合いの地である。
このような荒野の世界にあって、ところどころに白壁づくりの集落が存在していることは、そんな地でも生活が営めるというのだから感動ものである。食物や水道、電気はどうなっているのだろう。子供達の学校はどこにあるのだろうとすぐ考えてしまう我々は、都会に毒されている証拠かもしれない。どっこい生きれる知恵は、長い年月にそなわっているのだろう。
 終着「アルメリア駅」に降りたものは数人のみ。あっという間にホームから消え、残ったものは我々二人だけ。がらんどうになった構内から駅前に出たら、町が静寂で人にもほとんど逢わない。「ここ、アスメリアは何もないところだ」と直感。軌道の果てを狙って足を伸ばしたことに少々後悔もした。駅舎は立派だが、観光案内所も見当たらない。多分ホテルもないかも知れない。少々の不安はあったが、とりあえず地中海沿岸コスタ・デ・ソルの東端まで来てしまったのだからと歩を進める。十月に入ったばかりなのに外気温13度。海風が強く、町全体砂埃がすさまじい。急に冬の体感となり、ホテルさえみつければ気も晴れるだろうにと町へ出たら、二ツ星のホテルがみつかった。部屋の下見もせずここでの宿泊を即決した。どっと疲れを感じ、荷物を置くやベッドに大の字になってしばし休息をとったのち、外出することにした。先刻、ホテルのロビーの壁に掛けられた油絵で、岬の先端に城址がぼんやり描かれているのが目にとまった。フロントでこの場所はどのあたりにあるのか質問すると、ここからだと三〇キロもあり、タクシーでないと無理だといわれたので諦める。とりあえず寒さと風の対策だけはしっかりしていかねばと、上下ヤッケを着て、海岸沿いの通りへ出る。アンダルシア鉄道がここアルメリアまでしかない。その割には大きく立派な駅舎である。引き込み線が海辺へ延びているところをみると、ここから先は地中海を利用する積み出し港で潤っている町なのかも知れない。道路の幅も四車線は優にあり、日曜とあって人出は少ないが、車だけはスピードを出して往き来している。あまりにも道幅が広すぎて、横断しようにも途中で一時止まらないと行きつけないほどだ。
スペインのこんな果て地で交通事故にでもあったら大変だ。大変気を使った町めぐりとなる。廃墟と化した石組みの巨大建造物が町中にデーンと存在し、その周辺には少々近寄り難い人種に出会い、ヂロヂロ見られたりするといい気持ちはしない。店はほとんど閉まっていて、やっと見つけたカフェレストランには土地の人達で満杯に近い。タバコの煙がモクモクだが、冷めた身体には心地よく、ほっこり気分でティータイムをとった。若者のグループの一人が近づいてきて腕時計を指差すので、多分時刻を知りたいのだろうと思って、腕を差し出して見てもらう。日本人なら小人から大人まで時計を身につけているのが当たり前みたいになっている時代にあって、まだ時刻をたずねて行動するような社会はどうなっているのだろうか。日本人が、時は金なりとばかりに時間との戦いであくせくしているのに反して、ここアンダルシアの果てでゆったりと流れる日常の差に、やっぱり考えさせられてしまうのだ。身体もあたたまり店を出たとたんに、子供連れの母親にお金をねだられた。富める者が貧者へ施す習慣はイスラム社会では当然の行為とはいえ、やはり理解できない。急いでその場を立ち去った。
 さて、期待薄に終ったアルメリアの暗い思いをふっ切るべく、夕食はホテル経営のレストランでとることにした。大皿に雑多な料理をふんだんに注文し、ゆっくり時間をかけての語らいで、気分もすっきり回復した。


グラナダからアルメリア行きのローカル線の車窓よりながめる 赤茶けた台地が続く


立派なアルメリア駅


駅構内の装飾壁


ひっそりとしたアルメリアの町と背部の廃墟が一段とわびしさを深めた


グラナダ駅に到着寸前、
車窓からみたキュートな田舎屋の風景
一夜あけた月曜日、昨日の寒々と吹き荒れた風も静まっており、足早に駅方面へ向かう通勤者の群れは活気に満ちた光景だった。
 今日は再びグラナダ経由でマラガへの移動だが、どんよりと雲がたれ、気持ちまでが暗くなるような日だ。車窓からの眺めは手付かずの荒野を呈しているが、今回はめずらしく、遠くに羊の群を連れた人影を確認出来た。またもや、こんな過酷な環境で生きられるものだと思って悩んでしまった。
 グラナダでの乗り換え時は、とうとう小雨模様となっていた。一時間待ちの間に、例のごとく駅前へ出て昼食用の食物を調達してくる。今日のアルハンブラ宮殿を観光する人は悪天候で気の毒だ。昨日のアルメリアでの寒風と、ネバダ山脈を越えたグラナダの雨降りとは関連があるのかもしれないが、私たちは運良く晴天の下でアルハンブラ宮殿を訪れることが出来て幸いだった。
 「ボバディア」で再度乗り換え、国際都市マラガへ着いたのが午後三時。太陽の光も強く真っ青な空。低温だった地域からいきなり気温21度の快適なところへやってきて、晴々とした気持ちになった。
 町の中心地までは、マラガ港にそった広い道をかなりの距離を歩いた。道の中央には、大木のグリーン地帯が連なってゆとりのある空間を作っているので、都会の喧噪さは全く感じない。途中、木陰で焼栗を売っている屋台で観光客と思われる二人連れが買物をしている。この地で秋を感じさせる焼栗が食べられるとは思ってもいなかったので、早速小銭二〇〇ペセタ分を注文した。ザラ半紙を三角に折って、熱々の皮のはじけた大粒の栗を十個ばかりをくるんでくれた素朴な仕草がとても心地よかった。
 国際都市マラガは、コスタ・デ・ソル(太陽の海岸の意味)の中心地。明日予定している「ミハス」や「ロンダ」方面への中継地として軽い気持ちで立ち寄ったが、画家ピカソの生誕地でもあり、古い歴史につつまれた町であった。早速、夕方までに主な見どころを尋ねようと、朽ちた石段のある坂道を登り、十一世紀にアラブ人によって築かれたといわれるアルカサバまでやってきた。こんなひっそりしたところへは、余程歴史に興味がないと観光客でないと足をのばさないだろう。ここからはマラガ港も眼下に一望出来る。アルハンブラ宮殿を思わせるような馬蹄型のアーチや幾何学紋様が残っている壁。区切られた敷石をまたいで次々と朽ちかけてしまった小部屋をのぞきこんでは、イスラムの華やかりし往時を想像してみたりして、見学を終え、旧市街へと入った。高く聳え立つカテドラルや教会、かつての宮殿を改装した美術館、司教館もこの町にはしっくりと息づいている。港町である為外国人も多く、活気に満ちあふれていた。ちょっと立ち寄るつもりでいたので、ホテルは夕食がすぐとれるところに決めようと商店やカフェがびっしり建ち並ぶにぎやかな一画を選んだ。三階建ての同じ型をしたホテルが隣り合わせになっており、入口は開放され広いタイル張りのロビーに、バルコニー風の踊り場に通ずる鉄柵の階段があり、そのバルコニーの手すりから身を出してにこやかに老婦人が招く。となりのホテルに目をやると、ロビーの真中に円卓が置かれ、大振りの花瓶には造花が一杯飾られている。どちらに決めようかと考えている内に主人の決断は老婦人のニコニコ笑に傾いてしまった。
 「ペンション・ラモス」は、バス・トイレは共同、案内された二階の部屋は小さなシンクとベッドのみ。水道の蛇口は入居を確認してやっと開栓される。ドアーは木製でガタピシのおんぼろ。鍵穴は磨り減って、覗き見しようと思えば中が見えるだろう。商店街の通りに面しているので、夜遅くまで音が絶えない。選んだ当人はいやがっていたが、二人で四〇〇〇ペセタの料金では文句も言えない。隣室には船員らしい身なりの黒人さんも泊まっていたし、国際都市マラガの港町での空気に触れた一日だった。夕食もこの商店街ですぐありつけるが、夜九時や十時の開店では、日本人の習慣からみてめっぽう遅い。準備中の小さなレストランで無理にお願いして、部屋の片隅にあるテーブルにセッティングしてもらい食べさせてもらった。


聳え立つマラガの大聖堂


かつての宮殿を改装して利用されている
重厚な図書館


十一世紀アラブ人によって築かれた丘上の
アルカサバ遺跡


アルカサバの遺跡より眼下にマラガ港がみえる


ミハス
町の路地を観光めぐりする唯一の乗り物、ロバのタクシー
 アルメリアでの寒さがこたえたのか、軽度の咽頭痛と寒気を感じたので、風邪薬を飲み早々に寝入ってしまった。いつもなら就寝前にはそれなりの翌日の計画を確認するのだが、何もせず朝を迎えてしまったが、すっきりした体調に戻っていた。予定していた計画を無視して、行きあたりばったりでマラガ駅からフエンヒローラまで列車に乗り、ここからはバスを使って「ミハス」まで行く。約二〇分の乗車だが、山の中腹にある白い町「ミハス」は、各国からツアー客が訪れる人気の町だ。真青な空と澄んだ空気で満たされた山腹の木々の緑の中に、点在するおしゃれな別荘が目に入る。都会でのマンション暮らしをしているものがこの光景をみたら、きっと夢見るような心地にさせられることだろう。
 観光客が立ち寄る表通りは、ぞっくりとおしゃれなブティック、みやげ物屋、オレンジが山積みされた果物屋、カフェ、レストランが建ち並び、人々でごったがえしていた。
たしかに「白い町」と言われるだけあって、どの家も白壁と花鉢がいたるところに吊り下げられ、花の香りが町全体をおおっているかのようだ。そこえロバのタクシーが鈴をならして観光客を乗せて町めぐりをしている。多分、御伽の国を闊歩している気分が得られるのだろう。
 日本人ツアーも、スペインめぐりのコースにこの地で途中下車観光が出来るよう組まれているので、短時間をぞろぞろと一団となって買物したり写真をとったりで台風がおしよせた様なざわめきになる。一団が立ち去った後は、他国の観光客がのんびりと歩いたり、カフェテラスのベンチに座って飲食しながらのおしゃべりに花が咲いている光景との差をみて、うんざりしてしまうのは常だ。


白い町「ミハス」と呼ばれる所以、屋並の壁は白一色で統一されている


太陽がまぶしい緑の中の別荘


真青な空とおいしい空気につつまれて
ティータイムを楽しむ観光客


グアダレビ川が刻んだ深い峡谷の上に築かれた町「ロンダ」
 一日に二本しか停車しない「ロンダ」を尋ねる為、早々にミハスを離れる。それでもロンダ駅に着いたのは陽もすっかり落ち、家々に電燈がともっている九時過ぎになった。ほの暗い駅舎を出たら、事はうまく運ぶもので、広場を隔てて可愛いホテルが一軒ある。空部屋も一室だけあると聞き、疲れもいっぺんに吹き飛ぶほどほっと安堵する。荷物だけを部屋に置いて、すぐに遅い夕食をとる為、町の中心地まで、うす暗い街燈と家並みの窓からもれる明かりを頼りに十数分は歩いただろうか。照明がそこだけ明るい建物をみつけ、窓越しにのぞくと、営業中のレストランだった。空腹感が極に達しているこの時間。とにかく食べる物なら何でもいいやと言う覚悟でドアーを開けた。すでに二組の先客がテーブルを使っているので、カウンター席に座ることにした。幸いなことに、調理された魚介類が目の前にトレイに並べてあるので、注文するのに困ることもなく、指差すだけで好物の魚の酢じめやムール貝のレモンしぼりやフライ物など、存分に食べることができた。
 旅も数日続けていると、メニュー選びには悩まされるものの、レストランの使い方だけは慣れてくる。一日三食の内、夕食だけでも重点的に満足するものを摂りたいと思っていても、レストランでの食事は時間がかかるので勿体無いと思って軽食で済ますことが多い。明日のロンダめぐりを期待して、満腹で満ち足りた身体を夜風に打たせながらホテルへ戻った。
 ここ「ロンダ」も多勢の観光客が訪れるところだ。グアダレビ川が刻んだ深い峡谷が新旧の街を分けている。この川にはヌエボ橋、アラブ橋、ローマ橋の三本がかかっていて、中でもヌエボ橋の下は一〇〇メートルに及ぶ絶壁になっており、このタホ谷とそのはるか遠くにどこまでも続く原野が広がる光景は、素晴らしいの一語に尽きる。ツアー客のほとんどは、このヌエボ橋が崖っぷちに建つパラドールのテラスからその光景をめでた後、次の観光地へと移動するらしい。
 一日中、ハイキングする積りで旧市街のイスラム教支配が色濃く残る細い路地を通り、マヨール教会、サルバティエラ宮殿、スペイン最古の闘牛場などをめぐり歩き、途中で古びた石組みで造られたカフェ・レストランに立ち寄り、好きなエスプレッソコーヒーを飲む。すっかり栄気を取り戻したその勢いで、一〇〇メートルの絶壁とヌエボ橋を見上げられるポイントを探すべく、谷底を目がけてどんどん下って行き、一人やっと立てる岩山をみつけた。このビューポイントで、思い残すことはないと言わんばかりの時間をかけて写真を撮ることが出来て、主人も満足顔だった。谷を下った分また登って上がらないといけない苦労が全く気にならないほどの感動がそこにはあったようだ。
 一日中、ホテルで荷物をあづかってもらい町めぐりが身軽で快適に出来たのは、オーナーの親切があってこそ出来たことに感謝し、これからも晴々とする出逢いを大事に、私達も少しでも心の成長を願いたいと思った。


正面、ヌエボ橋、
その下は100mに及ぶ絶壁になっている 左の建物はパラドール(今はホテル)


ヌエボ橋の反対側は、
細部の造りは・・・になっている


ロンダの町にある3つの橋の一つ、
「アラブ橋」はこのアーチをくぐったところ
前方はやはり白壁の家並


次回、アルヘシラス ガディス セビリア メリダへと向います。(12月末掲載予定)
お楽しみに。


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